今宵は遣らずの雨
「……起っきゃがれっ、鍋二郎っ。
なぁにが面を上げろ、だ」
側用人が去ったとたんに、足を崩した多聞が言葉遣いも崩した。
「此度もまぁ、めんどくせぇのを持って来やがって」
南町奉行所で、御奉行様に従いつつ、町方の治安を守る同心を束ねる「与力」を務めるのが多聞の御役目だった。
町家相手の仕事のため、すっかり町人言葉が板に付いている。
俗に「江戸の三男」と呼ばれる「与力・相撲取り・火消しの鳶」は江戸に住む女人たちの憧れの的だ。
早々と隠居した父親の跡を継いだため、三十代にして筆頭与力に駆け上がった多聞は、巷では浮世絵になるほどの鯔背な男である。
頭はもちろん粋な本多髷だ。
手柄を求めて敵対する、北町奉行所の筆頭与力の娘を嫁にしたのも、町家の連中にはやんやの喝采だった。既に、男女一人ずつ子を生していた。
兵部少輔とは元服前の若衆髷の頃から、同じ剣術道場でしのぎを削った仲である。
二人きりになれば、身分の違いはどこ吹く風、口の悪さは終生変わらぬであろう。