泡沫の夜
「帰ろう、送る……」と促した彼の手に自らの手を重ね、ジッと彼の目を見つめたまでは覚えてる。
楽しい時間に水を差されたみたいで、ほんの少し苛立ったのかもしれない。
彼を誘ったつもりはなかったけれど、結果的に誘ったのは私だったんだろう。
そのあと過ごした時間は、曖昧な記憶でしか残っていない。
ボンヤリとした思考のまま、夢と現実の境目を揺ら揺らと彷徨っていたみたいだった。
その場限りだと、教えた偽りの名前を彼の唇が紡ぎ落とす度、私は本当に他の誰かになれた気がした。
地味で色気のないいつもの自分が一枚一枚剥がされて、代わりに艶やかなベールを纏うような、そんな不思議な感覚の中、行きずりの……一夜限りの、そんな関係のはずなのに随分と優しく……まるで大切なものに触れるように、彼は私を愛してくれた気がする。
今思えばそれは私の身勝手な勘違いでしかないのだけど。
朝目が覚めた時、隣に眠る彼が理央くんだと知った時は愕然とした。
同じ会社の、しかも相手はあの有名な人だ。
私はなんてことをしてしまったんだろうと激しく後悔した。
逃げるように出て行こうとした私を、何故か彼は引き止め「また会いたい」と言う。
彼は気付いていないのだ。私が同じ会社の人間だと。
当たり前のことだけど、ひどく寂しかったことを覚えてる。
その寂しさが、狡い心を生んだのだと思う。
「金曜日の夜だけ、あの店に行くわ」
そう答えていた。