正述心緒
埋み火
1
トワレを指に取って、ウエストに付けてからシャツを羽織った。最初、透子を真似て手首に付けたら、あまりの匂いのキツさに驚き、今はずっとここに付けている。
透子は体温が低いんだろう。…まあ、大抵の女は男より体温が低いが。
よく似合ってるよ―――
多分、深い意味は無かったんだろうとは思う。
なのに、未だにその時の透子が忘れられないのは、どうしてなんだろう。
大学の時に、付き合っていた“彼女”から、誕生日プレゼントにと渡されたそれは、割と有名なブランドのオードトワレだった。―――とは、後から聞いて知った事だったが。
香水なんてもらっても付けねえし、と、誰かに押し付けようとしていたら、つかつかと透子が歩み寄って来たかと思うと、引ったくるようにそれを取り上げた。
基本的に透子はフェミニストだ。
重い荷物を持っている女子を見かけると、大丈夫?と言いながら率先して手伝いに行く程に。
どう見てもお前の方が大丈夫じゃねえだろ?と、心の中でツッコんだのは、1度や2度じゃ無い。
だからこの時も透子からしてみれば、“せっかくのプレゼントを無下にしているロクデナシ(自分)”、に対して腹を立てたのだろう。
透子はいつになく怒った顔で睨み付けると、バリッ―――と音を立てて、止める間もなく箱を開けた。
瓶の蓋を取ると、口に指を当てて軽く傾ける。
それを手首に付けて、円を描くように動かすと、ふ…と、爽やかな柑橘系の香りが匂いたち、透子は目を閉じてそれを吸うと、微笑んだ―――微かに、唇を開かせて。
…良い匂い、と。
呟いた透子が目を開ける。
そして、ほら、と言うように差し出された手首は。
強く握れば折れてしまいそうなほどに華奢で。
血管が蒼く透けて見えるほどに白かった。
きゅっ―――、と。
ネクタイを締めて、鏡の中を見やる。
少しは、女らしくなっただろうか…。
大学を卒業してから、4年が経っていた。
「お見合い…ですか?」
「うん、決まった人がいないんだったら、どうかね?」
営業部長は、和やかにそう言った。
相手は専務の娘だ。まさか断るとは思わないんだろう。
心の中でため息をついて、微笑んだ。幸か不幸か、今は“彼女”がいなかった。
「部長のお話、何だったんですか?」
コーヒーを机に置きながら、営業事務の女子社員が聞いてきた。
「ん、うん、まあ…いつものカンジかな。」
適当なことを言いながらカップを手に取り、ありがとうとでも言うように、ちょっと上げてから口に付けると、女子社員は嬉しそうな顔をして席に戻った。
やれやれ、だ。
軽く首を左右に動かして解す。
ここのコーヒーは、自動抽出機能がついたサーバーで提供されている。何時でも好きな時に、勝手に“自分で”淹れて飲むスタイルだ。
だから、別にしなくていいよ、と前にも言ったのだが、この女子社員には通じなかった。
曰く、皆さんお疲れなんですから、この位はさせて下さい、というのが彼女の言い分だが、ぶっちゃけ、それをされて喜ぶのは、50過ぎのオッサン位だとわかっていない。
飲みたい時に飲ませろよ、その為の器械なんだから―――と言わないだけ、俺も少しは成長したという事か。
これから始まる予定の案件資料に目を通しながら、コーヒーを飲み干して立ち上がる。サーバーの隣にあるゴミ箱にプラスチックのカップだけ捨てて、ホルダーは容器に入れる。
別に大した事をしている訳じゃ無いのに、こういう所が女子の好感度を上げている―――と、飲み会で営業の先輩に言われた時は、実にアホらしいと思ったものだ。
自分が使った物の後始末ぐらいするのは当たり前で、幼稚園でも教わる事だろうに。
クスリ…と微かな笑い声が蘇る。
“らしい”ね、と。
そういうところ、もっと見せてあげれば良いのに、勿体ない。
思い出して、微かに広角が上がった。
そういや、“勿体ない”ってのが、口癖だったな。
「シノ!」
予想通りだと思いながら振り向くと、少し怒ったような顔をした透子がいた。なんだよ、素直に喜べよ、と思いながら首を傾げてみせる。
「桐野先生んとこ、断ったって…」
「ああ、西島建設(ゼネコン)受かったからな。」
「受かったって…」
「いや、だってさ、結構大変だぜ? 正直、ブラック企業って、ああいう所を言うんじゃないかって、マジで。」
そう言って、肩を竦めた。
それでも、透子は受けるだろう、この話を。
教授の推薦で、夏休み中ずっと、設計事務所でバイトをしていた。
地元ではまあまあ大手で、割と大きな案件を手懸けている事務所だったが、とにかく人出が足りず、インターンという名の雑用係としてこき使われた。
それでも、目の当たりにするプロジェクトは、設計にそれ程情熱を持ってない自分でも気分が高揚する位、面白い物が多かったから、透子には向いているに違いない。
建築士を取れば、設計は出来る。
でも俺はきっと、建築家にはなれないし、なろうとは思わないだろう。
でも透子は違う。
子供のように好奇心に満ち溢れ、眩しいほどに輝く瞳を見下ろして。
ニヤリと、意地悪く笑ってみせた。
「お前受けんの?物好きだな。」
「悪かったね。」
そう言うと、透子は呆れたようにため息をついた。
「そんなんで、大丈夫なの? どこ行ったって、大なり小なり大変な事はあるのに。」
「分かってるよ、勿論。ただ、俺には合わねぇってだけだ。」
わざとらしく、海外ドラマみたいに両手を上向きにしてみせると、またため息をついた。別にいいけど…と呟いて、くるりと背を向ける。
「まあ、頑張れよ。」
思わずそう言うと、肩越しに透子が半眼で、多分、本人的には冷たい視線を送ってきた。
「見てなさいよ。建築雑誌に載るような設計、してやるから。」
楽しみにしてる。
心から、そう思いながら、手を上げた。
透子は体温が低いんだろう。…まあ、大抵の女は男より体温が低いが。
よく似合ってるよ―――
多分、深い意味は無かったんだろうとは思う。
なのに、未だにその時の透子が忘れられないのは、どうしてなんだろう。
大学の時に、付き合っていた“彼女”から、誕生日プレゼントにと渡されたそれは、割と有名なブランドのオードトワレだった。―――とは、後から聞いて知った事だったが。
香水なんてもらっても付けねえし、と、誰かに押し付けようとしていたら、つかつかと透子が歩み寄って来たかと思うと、引ったくるようにそれを取り上げた。
基本的に透子はフェミニストだ。
重い荷物を持っている女子を見かけると、大丈夫?と言いながら率先して手伝いに行く程に。
どう見てもお前の方が大丈夫じゃねえだろ?と、心の中でツッコんだのは、1度や2度じゃ無い。
だからこの時も透子からしてみれば、“せっかくのプレゼントを無下にしているロクデナシ(自分)”、に対して腹を立てたのだろう。
透子はいつになく怒った顔で睨み付けると、バリッ―――と音を立てて、止める間もなく箱を開けた。
瓶の蓋を取ると、口に指を当てて軽く傾ける。
それを手首に付けて、円を描くように動かすと、ふ…と、爽やかな柑橘系の香りが匂いたち、透子は目を閉じてそれを吸うと、微笑んだ―――微かに、唇を開かせて。
…良い匂い、と。
呟いた透子が目を開ける。
そして、ほら、と言うように差し出された手首は。
強く握れば折れてしまいそうなほどに華奢で。
血管が蒼く透けて見えるほどに白かった。
きゅっ―――、と。
ネクタイを締めて、鏡の中を見やる。
少しは、女らしくなっただろうか…。
大学を卒業してから、4年が経っていた。
「お見合い…ですか?」
「うん、決まった人がいないんだったら、どうかね?」
営業部長は、和やかにそう言った。
相手は専務の娘だ。まさか断るとは思わないんだろう。
心の中でため息をついて、微笑んだ。幸か不幸か、今は“彼女”がいなかった。
「部長のお話、何だったんですか?」
コーヒーを机に置きながら、営業事務の女子社員が聞いてきた。
「ん、うん、まあ…いつものカンジかな。」
適当なことを言いながらカップを手に取り、ありがとうとでも言うように、ちょっと上げてから口に付けると、女子社員は嬉しそうな顔をして席に戻った。
やれやれ、だ。
軽く首を左右に動かして解す。
ここのコーヒーは、自動抽出機能がついたサーバーで提供されている。何時でも好きな時に、勝手に“自分で”淹れて飲むスタイルだ。
だから、別にしなくていいよ、と前にも言ったのだが、この女子社員には通じなかった。
曰く、皆さんお疲れなんですから、この位はさせて下さい、というのが彼女の言い分だが、ぶっちゃけ、それをされて喜ぶのは、50過ぎのオッサン位だとわかっていない。
飲みたい時に飲ませろよ、その為の器械なんだから―――と言わないだけ、俺も少しは成長したという事か。
これから始まる予定の案件資料に目を通しながら、コーヒーを飲み干して立ち上がる。サーバーの隣にあるゴミ箱にプラスチックのカップだけ捨てて、ホルダーは容器に入れる。
別に大した事をしている訳じゃ無いのに、こういう所が女子の好感度を上げている―――と、飲み会で営業の先輩に言われた時は、実にアホらしいと思ったものだ。
自分が使った物の後始末ぐらいするのは当たり前で、幼稚園でも教わる事だろうに。
クスリ…と微かな笑い声が蘇る。
“らしい”ね、と。
そういうところ、もっと見せてあげれば良いのに、勿体ない。
思い出して、微かに広角が上がった。
そういや、“勿体ない”ってのが、口癖だったな。
「シノ!」
予想通りだと思いながら振り向くと、少し怒ったような顔をした透子がいた。なんだよ、素直に喜べよ、と思いながら首を傾げてみせる。
「桐野先生んとこ、断ったって…」
「ああ、西島建設(ゼネコン)受かったからな。」
「受かったって…」
「いや、だってさ、結構大変だぜ? 正直、ブラック企業って、ああいう所を言うんじゃないかって、マジで。」
そう言って、肩を竦めた。
それでも、透子は受けるだろう、この話を。
教授の推薦で、夏休み中ずっと、設計事務所でバイトをしていた。
地元ではまあまあ大手で、割と大きな案件を手懸けている事務所だったが、とにかく人出が足りず、インターンという名の雑用係としてこき使われた。
それでも、目の当たりにするプロジェクトは、設計にそれ程情熱を持ってない自分でも気分が高揚する位、面白い物が多かったから、透子には向いているに違いない。
建築士を取れば、設計は出来る。
でも俺はきっと、建築家にはなれないし、なろうとは思わないだろう。
でも透子は違う。
子供のように好奇心に満ち溢れ、眩しいほどに輝く瞳を見下ろして。
ニヤリと、意地悪く笑ってみせた。
「お前受けんの?物好きだな。」
「悪かったね。」
そう言うと、透子は呆れたようにため息をついた。
「そんなんで、大丈夫なの? どこ行ったって、大なり小なり大変な事はあるのに。」
「分かってるよ、勿論。ただ、俺には合わねぇってだけだ。」
わざとらしく、海外ドラマみたいに両手を上向きにしてみせると、またため息をついた。別にいいけど…と呟いて、くるりと背を向ける。
「まあ、頑張れよ。」
思わずそう言うと、肩越しに透子が半眼で、多分、本人的には冷たい視線を送ってきた。
「見てなさいよ。建築雑誌に載るような設計、してやるから。」
楽しみにしてる。
心から、そう思いながら、手を上げた。