正述心緒

2

 透子に会いに行こうと思ったのは、どうしてか。
 自分でもよくわからない。
 ただ、どうしているだろう―――そう思って、設計事務所のドアを叩いた。


「ずい分立派になったじゃないか。」

 渡した名刺を見ながらの開口一番に、一瞬嫌味だろうかと思ったけれど、この社長は思ったことをそのまま口にするだけで悪意は無かったな、と思い直して微笑んだ。
 
「最近、どうですか?」
「まあ、ぼちぼちな。人数少なくなった分、仕事も少なくなったからなぁ…まあ、バブルん時は異常だったんだろ。」
 社長はそう言って笑いながら、大きなマグカップでコーヒーを啜った。
 確かもう、60を超えているハズだが、相変わらず若いというか、なかなかの男振りだ。白くなるに任せたグレーの髪を短く刈り込み、整えた顎髭がよく似合っている。

 バイトの時は、色々とお世話になったものだ…主に“男の付き合い”に関して。

 いわゆるホステスがいる高級クラブや、格調あるホテルのラウンジなどでの振る舞いや酒の飲み方といったものは、ほとんどこの社長から教わった。

 そういったものは一人で身に付けられるものでは無いし、ある意味良い勉強になったと思う。そもそも若造である自分が1人で行ったところで、相手にされないような店ばかりだったし。

 そして、そこで酒を飲みながら、建築の事に限らず色々な話をした事が、営業という今の仕事に生きている。―――女との付き合い方もまた、然り、だ。

 実のところ、今現在特定の“彼女”がいないのは、こういった付き合いの中で知り合った女と、割り切った関係を楽しむ事が多くなったからに他ならない。

 正直、お互いにドライな関係が1番楽だった。
 おそらく、透子が知ったらまた、嫌な顔をするだろうけど。

「…初島は、どうです?」
「ん?…ああ、同級生だったな、…うん、まあ、悪く無いよ。建築士もしっかり受かったし。」
 満更でも無い顔をしているくせに、と、苦笑した。
 頭の良い女は嫌いじゃないはずだったが、如何せん、透子は酒に弱い。社長が好きな、“大人の付き合い”が出来ないのが不満なのだろう。おそらくは。

「今度やる案件も、アイツのだ。ちょっと時間を掛けすぎるのが玉にきずだがな。」
 そう言って笑った社長と、しばらくたわいも無い話をした後、事務所を出た。

 ビルの外から、事務所を見上げる。結局、透子には逢えなかった。



「インフルエンザ?」

 帰り際に“八木”という名前の社員証をぶら下げた若い男を捕まえて聞いてみた。まさかの回答に驚く。
「そーなんですよ、…なんか、同居してる人がかかってるとは聞いてたんですけど、移っちゃったみたいで。」
「へえ…」

 同居…つまり、家族以外の誰かと一緒に暮らしているという事か。

 正直に言って、意外だった。

 透子にそれ程仲の良い女友達が出来るとは、思ってもみなかったからだ。
 大学時代は大抵1人で歩いている事が多く、姿が見えないと思ったら、教授の部屋でコーヒーを呼ばれながら、建築談義に花を咲かせるようなヤツだったのに。

 まあでも、4年も経っているのだから当たり前か。

 内ポケットから携帯を出して、電話帳を呼び出す。
 透子―――と表示された番号を押そうとして、止めた。

 もう番号が変わっているかもしれない―――自分がそうであるように。

 それで繋がらなければ、それまでの話だ。
 なのに、かけることが躊躇われたのは、どうしてだろう。

 表示された透子の番号を見つめる。
 もし、繋がらなかったら―――?

 不意に乾いた笑みがこみ上げた。
 自分が透子の中で、電話番号を知らせる程の相手ではないと、ハッキリ思い知らされるのが嫌なのだと気が付いて。
 アホらしい、と思う。
 自分だって知らせていない。
 そして、この4年の間、全く連絡を取ろうともしなかったのだ。

 いつの間にか増えていく番号がうざったらしくて、変更した後は、あえて知らせる相手を選択していた。

 透子に知らせなかったのは、“何となく”だった。

 何となく、このまま縁が切れる方がいい―――そんな気持ちで、もうだいぶ前から送るのを止めていた。

 透子の番号を、自分の電話帳からは、削除しないままで。



「そんなとこに突っ立って、何やってんだ?」

 不意に背後から呼び掛けられ、驚いて振り向くと、覚えのある顔が、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら立っていた。

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