正述心緒

4

 ほんの僅か、触れただけだった。

 透子は一瞬、呆気にとられた後で、顔を顰めて言った。
「これ、お礼になる?」

 もちろん、なる訳無かった。
 触れるだけのキスなんて―――




 社に戻ると直ぐに、稟議書を作成した。
 持って帰った資料を元に、粗利を計算し、施工計画を立てる。とにかく、時間が惜しかった。
 もし、こうしている間にも、高橋が他所にこの案件を持って行ったら―――そう思うと、歯ぎしりしたい程だった。


「―――教会、ねぇ…。」
「幼稚園もあるんですが、悪くない話だと思います。…こども園の話はご存じですか?」
「こども園?」

 こども園というのは、幼稚園と保育園を合体させたような形態の、新しい託児施設らしい。
 調べてみると、幼稚園と保育園は、管轄も法律も違うが、慢性的な待機児童問題解消の為に、現在、国会などで審議が進んでいるようだ。
 幼稚園でも乳児を受け入れられる様に。
 透子はそうなった時の事を考えた設計を提案していた。

 こういう所が“らしい”と思う。
 あっけらかんとした性格で、あまり物事を深く考えてないように見えるのに、新聞やニュース等をキチンと読み込み、常に先を見ている。
 女にしとくのは惜しいな…と言っていたのはゼミの教授だったろうか。

「きっとこれから、こういう案件は増えていくと思うんですよ。」
「ふむ…ケーススタディとしてか。」
 しばらく思案してから、部長は承認を出してくれた。
 お前にしては珍しく入れ込んでるな、という苦笑付きで。


「ところで、あれはどうするんだ?」

 席に戻ろうと踵を返したところで、呼びかけられた。
 あれ?―――と思ったのが、そのまま顔に出たらしい。
 部長がやれやれ、と肩をすくめる。

「見合いだよ、まだ返事してないだろう。」
「あー…」

 すっかり忘れていた。
 思わず首の後に手をやると、部長がもの問いたげに首を傾げた。

「誰か、いるのか?」

 いるのか?―――と言われれば、いない。
 知らず、視線を伏せていた。
 部長がまた、苦笑した。

「無理強いしようって訳じゃないんだ、嫌なら断ればいい。」
「…はい。」
「ただ、相手が相手だからな?失礼のないように。」
「―――わかりました。」

 それだけ言うと、一礼して部屋を出る。
 一つ、ため息をついて、手に持った書類に視線を落とした。
 どうしてかはわからない。
 ただ、何か重しのようなものが、胸を押さえつけているような、そんな感じがしていた。



 高橋に返事をしてやると、すぐに契約書を用意したと連絡が来た。

 こいつがこんなに仕事が早いとか、おかしいだろうと思いつつも、一刻も早く、この案件を完全にこっちのものにするべく、待ち合わせに指定された、高いだけでちっとも美味くないと評判の、イタリアンレストランへと赴いた。

 フリーペーパーによく出ているそこは、小洒落た外観をしてはいたが、とにかく、酷い店だった。
 俺が思うくらいだ、女子人気はたぶん無いだろう。

 おそらく金をかけて設計からデザイン事務所に頼んだのだろうが、トイレの表記が独特でわかりにくいのか、男子トイレに女子トイレと、あろうことか張り紙がしてあるのはどうなんだろう?
 ところどころ掃除も行き届いていないようだし、何より、ガーデンパーティを開けるように設けられたと思わしき中庭は、落ち葉が降り積もり、端の方に屋外用の椅子を重ねて置いている。
 設計者と施主の思惑が、全く一致していなかっただろうとは、火を見るよりも明らかだ。
 こんな状態では、この店の行く末もしれている。

「ここ、よく来るんですか?」
 そう聞くと、嬉しそうな顔をして頷く。
「お前も知ってるだろ、ほら、瀬尾さん。あの人の設計なんだよ。」
 なるほどね…件の“先輩”を思い浮かべて納得した。

 高橋よりも2つ位年上の、高橋よりも堂に入ったバブル世代。確か、あの事務所は辞めて独立したのだと、社長が呆れたような顔で言っていた。
 やっていけるレベルじゃ無いと、暗に匂わせながら。
 
 バイトをしている時は、まだ一級建築士にも受かっていなかった事を思い出す。
 今年こそ、実技試験に受かるのだと息巻いて、俺や高橋に仕事を押し付けて帰ってたっけな…。

 そこで、ふと、高橋を見た。
 ご機嫌な様子でワイングラスを空けているが、そう言えば、こいつの名刺にはまだ、何も書かれていなかった…そう気付いた瞬間、口角が上がった。


 去年、会社の意向で、営業職にもかかわらず、一級建築士を受験した。

 西島建設(うち)は大手で、受験生のバックアップ体制も整っているせいか労せず合格し、すぐに名刺を作り変えるように命じられた。
 相手に差し出した時の、感触が変わるから、と。

 そして、合格発表をネットで確認した時に、透子の名前を見つけていた事も思い出す。


 だからか―――と、そこで初めて腑に落ちた。

 だから、気に入らないのだ。

 だから、この案件を取り上げようとしたのだ―――と。


 生憎だったな、と。
 心の中で呟いて、安物のワインを飲み干した。


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