君のことは一ミリたりとも【完】
声だけで分かる。彼のものだということが。
今まで何度も耳元で囁かれてきたバリトンボイス。
「おはようございます、生瀬さん」
隣の菅沼が席から立ち、挨拶をする。私は下を向いたまま動けなくなってしまった。
生瀬さんはそんな私を見つめ、しかしそのまま何も言わずに一番奥にある社長室へと向かった。
やっぱり無理だ、彼がいる会社なんて……
嫌でもあの夜のことを思い出す。
『亜紀、ごめんな』
残酷すぎるあの低く優しい声が、私のことをめちゃくちゃにする。
「……き、亜紀」
「っ……」
顔を上げると菅沼が「マジで大丈夫かよ」と心配そうにこちらを見ていた。
駄目だ、この調子じゃ周りに迷惑をかけてしまう。
「ご、めん……大丈夫だから」
「そうか? でも何か今の生瀬さんもいつもと違う感じだったよな。話しかけづらい感じだった」
「え?」
「あ、今の秘密な。言わないで」
両手を合わせて「な?」と目を細めた彼に軽く頷く。話しかけづらいってどんなだろう。ちゃんと見ていなかったから分からなかった。
少し、そのことに私に関係しているのかな。そうだとしたらいいな。