君の日々に、そっと触れたい。
【李紅 side】
桜と二人、おばーちゃんの別荘で暮らすようになって、四日が過ぎた。
桜は普段から一人暮らしをしているだけあって、家事の一切が問題なくこなせた。
反対に俺は、生活力というものが皆無だった。料理はもちろん、洗濯だってしたことなくて、出来ることと言えば掃除くらい。それだって桜が俺の肺を気遣って埃一つなく綺麗にしといてくれるから、ほとんど意味が無いのだけれど。
「桜はいいお嫁さんになるなぁ……」
夕飯を作るべく台所に立つ桜の後ろ姿を眺めながら、思わず呟いた。
「なぁに急に」
「思っただけ。他の男にやるのが勿体ないくらい」
「…………私、多分。李紅以外を好きになんてならないよ」
だからお嫁さんにもならないよ、と桜は背中を向けたまま言った。
「…先のことはわからないよ」
「…………そうかな」
「そうだよ。人生何があるか分からないもん。例えばほら……初恋の相手が弟でした、とかさ」
「……………笑えないよ、それ」
そう笑いながら言う桜は、その先を遮るように勢いよく蛇口を捻った。
豪邸の台所は広くて使いやすいね、なんてよそよそしく話題を変えようとする桜に、俺は構わなかった。
「…………………姉さん」
俺の呼ぶ声に、その背中がピクリと揺れた。
「…………俺たちが居なくなって、俺たちの居た場所は、戸惑ってるかな」
「…………そうだね、きっと」
「桜もバイトにも学校にも行ってないから、遅かれ早かれあのアパートに住んでないことに気付かれる。でも警察は動かない、きっと。家出扱いだと思う」
誰にも何も言わずに失踪したとしても、事件性を感じられなければ家出と同等の扱いになる、って、前に何かの映画で見た気がする。
「でも俺は多分捜査が入るね。病気のこともあるし、なにより13歳以下は特異行方不明者扱ってゆう扱いになるみたい」
「……………そうなんだ。詳しいね」
「調べたんだ。寝てばかりで暇だったから」
なんで調べたの、とは聞かれなかった。
だって桜だって分かってる。
なんたって病院だ。俺が居なくなったことにはどんなに遅くてもその日のうちには気付いただろうし。その後すぐに捜索願が出て捜査が始まったとするならば、もう警察の手がすぐそこまで来ていても何らおかしくない。
俺たちは身分も顔も隠さずにここまで来た。タクシーのおじさんも駆け落ちじゃないかと怪しんでいたから、俺たちの顔を覚えてる可能性が高い。つまり目撃情報はゴロゴロ転がってる。
桜と俺が一緒にいることも、この場所が割れるのも、もはや時間の問題だ。
「…………姉さん。母さんがここに来るかもしれないね」
今度こそ、桜の手が止まった。
ゆっくりと振り返って、俺を見つめ返した。
大きな瞳孔を鋭く細め、警戒心むき出しの猫みたいな眼だ。
「私を捨てたくせに?来るなら李紅を迎えに、でしょ」
誰も信用しない、そう目が言っていた。
「………俺は母さんが迎えに来ても帰るつもりなんてない」
「どうかな?李紅にとってはただの優しい母さんでしょ、何をされた訳でもないし」
「……………帰らない。あそこは元々俺の居場所じゃないから」
「でも、私の居場所でも無いよ!!」
桜は声を荒らげた。
「…………李紅は覚えてないだろうけど、あの人は私を愛してなんかいなかった。李紅が生まれた途端に、私の方を見なくなった。パパの話をすると、狂ったように怒った。私はあの時………本気で思ったの、弟なんか、李紅なんか、死ねばいいって!」
胸がなんだかキリキリ傷んで、頭がふわふわする。
何でだろう。何にも覚えていないはずなのに。
「今は李紅のこと、死ねばいいなんて思わない。だけどそんなことを言わないとやっていられなかったあの頃の気持ちが、李紅には想像もつかないでしょう?……愛されて、私のことも知らずに育った、李紅には分からない!!今更李紅が居なくなったって、そこに私の居場所はないの!」
桜は泣きそうな顔をしていた。
俺も泣きそうになったけど、泣けなかった。
だって、俺にはわからない、から。
桜という姉の存在も知らずに、のうのうと育った俺には、分からないから。
「……………俺……愛されければよかった」
誰かの世界を、こんなに歪めてしまうくらいなら。
ああなんだろう、心臓のあたりが、きゅっと痛む。
どうして、そこはなんにも悪くないのに。
……………ああそうか、俺いま初めて思ったんだ。
死んでしまいたい、なんて思ったことはないけれど、生きて行くのが怖い気持ちはいつもここにあった。
それなのに、なんで。こんな気持ちだけは知らなかった。
初めて出会った感情に、心臓が、心が悲鳴を上げる。
「生まれて、こなければよかった」
桜と二人、おばーちゃんの別荘で暮らすようになって、四日が過ぎた。
桜は普段から一人暮らしをしているだけあって、家事の一切が問題なくこなせた。
反対に俺は、生活力というものが皆無だった。料理はもちろん、洗濯だってしたことなくて、出来ることと言えば掃除くらい。それだって桜が俺の肺を気遣って埃一つなく綺麗にしといてくれるから、ほとんど意味が無いのだけれど。
「桜はいいお嫁さんになるなぁ……」
夕飯を作るべく台所に立つ桜の後ろ姿を眺めながら、思わず呟いた。
「なぁに急に」
「思っただけ。他の男にやるのが勿体ないくらい」
「…………私、多分。李紅以外を好きになんてならないよ」
だからお嫁さんにもならないよ、と桜は背中を向けたまま言った。
「…先のことはわからないよ」
「…………そうかな」
「そうだよ。人生何があるか分からないもん。例えばほら……初恋の相手が弟でした、とかさ」
「……………笑えないよ、それ」
そう笑いながら言う桜は、その先を遮るように勢いよく蛇口を捻った。
豪邸の台所は広くて使いやすいね、なんてよそよそしく話題を変えようとする桜に、俺は構わなかった。
「…………………姉さん」
俺の呼ぶ声に、その背中がピクリと揺れた。
「…………俺たちが居なくなって、俺たちの居た場所は、戸惑ってるかな」
「…………そうだね、きっと」
「桜もバイトにも学校にも行ってないから、遅かれ早かれあのアパートに住んでないことに気付かれる。でも警察は動かない、きっと。家出扱いだと思う」
誰にも何も言わずに失踪したとしても、事件性を感じられなければ家出と同等の扱いになる、って、前に何かの映画で見た気がする。
「でも俺は多分捜査が入るね。病気のこともあるし、なにより13歳以下は特異行方不明者扱ってゆう扱いになるみたい」
「……………そうなんだ。詳しいね」
「調べたんだ。寝てばかりで暇だったから」
なんで調べたの、とは聞かれなかった。
だって桜だって分かってる。
なんたって病院だ。俺が居なくなったことにはどんなに遅くてもその日のうちには気付いただろうし。その後すぐに捜索願が出て捜査が始まったとするならば、もう警察の手がすぐそこまで来ていても何らおかしくない。
俺たちは身分も顔も隠さずにここまで来た。タクシーのおじさんも駆け落ちじゃないかと怪しんでいたから、俺たちの顔を覚えてる可能性が高い。つまり目撃情報はゴロゴロ転がってる。
桜と俺が一緒にいることも、この場所が割れるのも、もはや時間の問題だ。
「…………姉さん。母さんがここに来るかもしれないね」
今度こそ、桜の手が止まった。
ゆっくりと振り返って、俺を見つめ返した。
大きな瞳孔を鋭く細め、警戒心むき出しの猫みたいな眼だ。
「私を捨てたくせに?来るなら李紅を迎えに、でしょ」
誰も信用しない、そう目が言っていた。
「………俺は母さんが迎えに来ても帰るつもりなんてない」
「どうかな?李紅にとってはただの優しい母さんでしょ、何をされた訳でもないし」
「……………帰らない。あそこは元々俺の居場所じゃないから」
「でも、私の居場所でも無いよ!!」
桜は声を荒らげた。
「…………李紅は覚えてないだろうけど、あの人は私を愛してなんかいなかった。李紅が生まれた途端に、私の方を見なくなった。パパの話をすると、狂ったように怒った。私はあの時………本気で思ったの、弟なんか、李紅なんか、死ねばいいって!」
胸がなんだかキリキリ傷んで、頭がふわふわする。
何でだろう。何にも覚えていないはずなのに。
「今は李紅のこと、死ねばいいなんて思わない。だけどそんなことを言わないとやっていられなかったあの頃の気持ちが、李紅には想像もつかないでしょう?……愛されて、私のことも知らずに育った、李紅には分からない!!今更李紅が居なくなったって、そこに私の居場所はないの!」
桜は泣きそうな顔をしていた。
俺も泣きそうになったけど、泣けなかった。
だって、俺にはわからない、から。
桜という姉の存在も知らずに、のうのうと育った俺には、分からないから。
「……………俺……愛されければよかった」
誰かの世界を、こんなに歪めてしまうくらいなら。
ああなんだろう、心臓のあたりが、きゅっと痛む。
どうして、そこはなんにも悪くないのに。
……………ああそうか、俺いま初めて思ったんだ。
死んでしまいたい、なんて思ったことはないけれど、生きて行くのが怖い気持ちはいつもここにあった。
それなのに、なんで。こんな気持ちだけは知らなかった。
初めて出会った感情に、心臓が、心が悲鳴を上げる。
「生まれて、こなければよかった」