君の日々に、そっと触れたい。

「私の気持ちなんて分からない」




「本当にいいのね?桜ちゃん」


小さめのダンボールが4、5個積まれた、小さなアパートの一室。念を押すように私は両肩を軽く掴まれた。


「はい、いいんです。バイトも続けるし、ここ家賃も安いから」


「そんな急ぎ足で自立しなくても……18歳になっても、高校卒業まではうちにいてもいいのよ?」


「いいんです、一人暮らし憧れてたし。いつまでも甘えていられないから」


腑に落ちない顔でようやく頷いてくれたこのおばさんは、高橋さんという。

ママに捨てられた私はあの後、家を飛び出してママたちを探し回っているところを保護され、孤児院に入れられた。高橋さんはその孤児院で働いている人の一人。

そこで私は13年間暮らしたけど、高3になるこの4月を期に、学校の近くで一人暮らしをすることを決めた。

その理由をはっきり言わなかったからなのか、高橋さんは私の一人暮らしをひどく心配しているようだ。


でも、ごめんなさい。
どうしても理由は言えないの。

言ったらきっと、余計に心配をかけてしまうから。


「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってね?」

「はい、ありがとうございます」


高橋さんは私の一人暮らしにあまり賛成してはいないみたいだけれど、嫌な顔ひとつせずにこうして荷解きを手伝ってくれる、とても優しい人だ。



だから、絶対に言えない。








一人暮らし、一日目。

私はだらしないあくびをしながら、通学路を歩いている。

昨晩はあまり眠れなかった。

大した荷物もないから荷解きはすぐに終わったけれど、今日学校に行かなくてはいけないことが憂鬱すぎてなかなか寝付けなかった。

それは、今日は日直だからとか。授業であてられる順番だからとか、そんな可愛らしい理由じゃない。


「げっ。ちょっと、来たよ。柏木 桜」
「昨日休んだから不登校かと思ったのに、ざんねーん」



教室の扉を開けた途端に、騒がしかった教室が静かになり、ひそひそと声を潜めてそう私を罵るクラスメイトの声。

聞こえないようにしてるつもりかもしれないけれど、全部聞こえてる。

いや、むしろ聞こえるように言ってるのかもしれないけど。
だとしたらその方がよっぽどタチが悪い。


世間一般的に見てこうゆうのを、”いじめ”と言うのだろう。



───事の発端は去年の秋。

私は他クラスの知らない男子に告白された。
その人とは話したことすらなく、特別かっこよかったわけでもなかったからその場で断ったけれど、後になってそれが同じクラスの雪奈の彼氏だということが発覚した。

そこから私がクラスで浮くのに、さほど時間はかからなかった。

雪奈はクラスの中心的人物だし、その雪奈に逆恨みなんてされたりしたら、もうお終いだと言うのは、誰だって分かる。


そうして始まった”無視”はいつの間にか本格的な”嫌がらせ”に変わり、私物を隠されたり汚されたりするようになった。

仲が良かった友達も、とばっちりを恐れて離れていった。

今日から晴れて3年に進級したが、うちの高校では2年から3年への進級時にはクラス替えをしないので、状況は変わらず…。




「よく平気な顔して学校来るよねー」
「ほんとそれなー」


馬鹿の一つ覚えみたいに毎日繰り返される言葉に聞こえないふりをして、一日中誰とも会話せずに淡々と授業をこなして下校する。

バイトはほぼ毎日勤務していて、隠されたり汚されてして使えなくなった制服や教科書を買い直すのに、給料のほとんどを費やしている。

それを施設の人に気づかれたくなくて、私は一人暮らしを決意したんだ。


「ほんとマジであいつ、なんで生きてんの~?」


不意に聞こえてきた、そんな罵声。私は思わず小さく笑ってしまった。


───ね。ほんとにね。ほんとに私、なんのために生きてるんだろうね。


使えなくされたものを取り戻すために必死にバイトでお金を稼いで、新しいものを買う。そしてまたダメにされ、またお金を稼いで取り戻す。その繰り返し。

プラマイゼロを装うのに必死で、なにもプラスにはならない。

きっとこれからも、それは変わらない。

それどころか、マイナスかもしれない。



じゃあ私は、どうしたらいいんだろう。


答えを見つけられたことは一度もない。






今日もいつものように、無心になって淡々と授業をこなし、放課後には下駄箱にローファーが健在していることにほっと胸を撫で下ろし、帰路につく。

いつもと違うことと言えば、帰る場所が施設じゃなくなったことだろうか。


今日から誰にも、「おかえり」とは言って貰えない。


───今更そんなこと、寂しいなんて思わないけどね。


感傷に浸ったまま、歩む歩調を速めた。その時、



「桜ちゃん!!」



不意に名前を呼ばれて振り返えれば、そこにはよく見知ったショートカットの可愛らしい女の子。


「舞…!」

「やっぱり桜ちゃんだ!すごい偶然!」


ぴょこぴょこと嬉しそうに駆け寄ってくるのは、前に同じ施設で暮らしていた、棚田 舞だ。

舞は私の1歳年下で、私が小3の頃に入所してきた、施設の中では数少ない歳の近い女の子。いつも一緒に居てすごく仲が良かった。

だけど舞が全寮制の高校に入ってからは、私のバイト忙しいこともあり、全然会えていなかったのだ。


「舞、制服似合ってる。かわいい」

「えへへー、でしょ?」


舞はいつも誰かに「かわいい」と言われると、心底嬉しそうに、でも少し照れながら、くしゃりと白い歯を出して無邪気に笑う。ほら、今もそうやって。


───よかった。舞は変わってない。


いじめを受けるようになってから、私を取り巻く色々なことが変わってしまったけど、きっと変わらないものもある。

そう思いたくて、私は大げさに笑ってみせた。





私たちはそのまま近くの海辺まで歩いた。4月のつめたい潮風に思わず顔をしかめる。満潮まで、あと少し。


「桜ちゃん、最近学校は楽しい?」


少し前を歩く舞が、何気なくそう問い掛けてきた。

どくり、と心臓があからさまに嫌な音を立てる。

楽しいはずが、ない。


「楽しいよ?」


だけど無意識に喉を突いて飛び出したのは、大嘘だった。


「………よかった!」


背中を向けて歩いたまま、舞はそう声を弾ませた。

途端にズキズキと心が痛むような、そんな感覚に見舞われる。これは罪悪感。

だけど本当の事を言って、情けないと思われるのが怖かった。



「でも、凄いね。一人暮らしなんて」


「──舞だって寮でしょ。似たようなものじゃん」


「全然違うよ!ルームメイトも居るし、自炊しなくても食堂があるし、門限もあるし。寮長は怖いし」


そう文句を言いながらも、その声は弾んでいた。


「…でも、すごく楽しいってオーラが出てるよ、舞」


舞は自分の感情を凄くわかり易く表に出すから、昔から舞の考えていることは大体分かった。どうしたら嬉しそうに笑うのかも。


だけど今日は、舞が嬉しそうに頷くだろうと思って放ったその言葉に、舞は何故か悲しそうな顔をして私に向き直した。



「………楽しいよ、すっごく」


「………じゃあどうしてそんな顔してるの」


気まずそうに俯いたその表情は、何か言いづらい事を言うか言わまいか迷ってる時に舞がいつもする顔だった。

舞は怪訝そうに首をかしげた私から視線を逸らし、俯いたまま言った。



「……桜ちゃん、転校してくればいいのに」



まるで独り言のようにボソリと呟かれた言葉を、私は聞き逃さなかった。


「…………どうして?」


すかさず理由を尋ねれば、舞はより一層気まずそうに顔を顰めた。



「だって桜ちゃん、いじめられてるんでしょう?」



ごめんね 知ってるんだ、とバツが悪そうに笑う舞。

何故だか心臓が凍りついたような感覚に襲われ、ひゅっと心地の悪い息を吸いながら、無意識に目を見開いていた。



「…………な、んで……それを……?」


「高橋さんから聞いたんた。桜ちゃんが学校で嫌がらせをされてるのかもしれない、って。私じゃ話してくれないから、舞ちゃんが話を聞いてあげて、って………」


───え……………?それじゃあ高橋さんは、私が学校でいじめられていることに、とっくに気が付いてたの………?


突然のことに頭の整理が追いつかない。


「だから今日ほんとは、偶然じゃなくてわざとあの道を通ったんだ。あらかじめ桜ちゃんのアパートの場所を高橋さんに聞いておいて、桜ちゃんが通学路にしてそうな道をわざと通ったの、桜ちゃんに会うために」


そう言われ、今になってよく考えたら、確かにあの出会い方は不自然だった。

学校のすぐ近くにある寮に帰宅するはずの舞が、こんな時間にまだ制服で、しかも一人でウロウロしているなんて。

だけど、あんな嬉しそうに声を弾ませて「すごい偶然!」なんて駆け寄られて、それを計画だと誰が疑えるだろうか。


「どうしてわざわざ………そんな騙すみたいなことしたの?」


反射的にそう零した言葉は、咎めるような、少し強い口調だったかもしれない。

それに気付ける程度には、自分が舞の行動に対して苛立っている自覚があった。


「………偶然を装ったことは悪かったと思ってるよ。でも、私は…私が何も切り出さなくても、会えば桜ちゃんから相談してくれると思ってたから……。なのに桜ちゃん、相談どころか私に隠そうとしたよね……?」


「当たり前じゃん……!自分から相談なんて出来るわけないでしょ!?」


"クラスでいじめを受けているから助けて"?

そんなこと言えるはずない。


言ってしまったらきっと皆は、きっとすぐに何か対策を立てようとしてくれる。舞のように転校を勧められるくらいならまだいい。下手したら、施設側から教師に相談や訴えが応じるかもしれない。

こうゆう問題に大人が首を挟んでも、火に油を注ぐだけだと言うことは、17 年も生きていれば当事者になった経験がなくても容易に想像できる。



掻き乱さないで、これ以上。

腫れ物に触るみたいに私を見ないで。

これ以上私を、可哀想な子にしないで。




「舞に私の気持ちは分からないよ……」


明るくて、可愛くて。誰からも好かれて。

そんな舞に、私の気持ちが分かるわけない。




「───………分かんないよ」




今までに聞いたこともないような、低く抑揚のない声で、舞はそう呟いた。


「分かるわけないじゃん!だって桜ちゃんは私に、何も話してくれないから!人に話したくないくせに、分かってもらおうだなんて、子供みたいなこと言わないで!」


「……私は別に…っ!分かって欲しいだなんて思ってない!!」


「だったら尚更、"舞には分からない"なんて責めるのは、おかしいじゃん!」


「責めてなんか……!」


「…………私はただ、桜ちゃんに前みたいに笑ってほしかっただけなのに………」


そう言ってキッと私を睨み付けた舞の瞳は、涙に揺れていた。


「舞………………」


その涙に驚いて伸ばした私の手を、強く舞は振り払った。


「…桜ちゃん、変わったよ」


「へ……」


「今の桜ちゃんは、私が大好きだったあの頃の桜ちゃんとは、もうまるで別人なんだね」


鋭く私を睨みながらも、舞の瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。



「余計なこと言ってごめんね、ばいばい」


「舞…………っ」


踵を返して遠ざかって行く舞の背中に、いくら手を伸ばしても、声をぶつけても、舞は一度も振り返らなかった。


「舞………まって……!置いてかないで!」


舞があんなに怒るところを初めて見た。

舞があんなふうに泣くのを初めて知った。



「……ひとりに……しないで………!!」


思わずその場に膝から崩れた。


───舞まで離れていったら、私はどうしたいいの。



独りになるのは怖い。

本当は、苦しい。誰かに傍にいて欲しい。


なのになんで私は、こんな風にしか出来ないんだろう。



ママに嫌われ、弟に「死ね」と罵り、クラスメイトに嫌がらせをされ、高橋さんに心配を掛けて、舞を傷付けた。

なんなのこの、最低すぎる人生は。






………………こんな人生なら、要らない。









ざあっと音を立て、いつのまにか足元まで来ていた海水が、真新しい焦げ茶色のローファーを濡らしていく。

寄せては返す度に、足元の砂をすくい、どこかへさらってしまう。




ああ、こうやって私のこともどこかへ攫ってくれないかな。

そうして夜の闇に、消してくれないかな。




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