君の日々に、そっと触れたい。
暫くしてお母さんがリビングを後にすると、李紅はそばにあった鞄からノートを取り出した。
それは例のノートではなく、表紙に”数学”と記された、普通のノートだった。
「どうしたの?」
「宿題しなきゃ」
「はは、なにそれ真面目?学校休んでる時くらいバックレちゃえばいいのに」
「勉強は嫌いじゃないんだ。暇つぶしになるし」
勉強が暇つぶしとか、私には絶対言えない台詞だ。理解し得ない。
意味がわからないという感情が顔に出ていたんだろう。李紅はちらりと私を見やると、苦笑いをした。
「桜は勉強なんかしなくても他に自由に暇つぶしできるから理解できないんだよ。俺にとって勉強は、ゲームと一緒。ベッドから降りないで出来る、数少ない貴重な遊びなんだからな〜」
「あ…、ごめん…」
確かに、勉強したくないって気持ちは、勉強よりも楽しいことを知ってるから生まれる感情で。それを知る経験をしてこれなかった李紅にとっては、勉強も遊びなんだ。
なんだか無神経なことを言ってしまったような気がして反射的に謝ると、李紅はどうして謝るの、とでも言うように首を傾げた。
「まぁでも今は勉強より楽しいことたくさん知ってるよ?春の海とか、アツアツのカップラーメンとか、三流映画とか!」
「全部私としたことじゃん」
思わずツッコミを入れると、李紅はなんだか照れ臭そうに笑いながら、ノートに視線を戻した。
まるで日焼けなんてものを知らないような、陶器みたい白い肌。俯く長い睫毛が、大きな瞳に影を落としている。海をそのまま閉じ込めたみたいな、碧色の瞳。
───きれー………。
李紅の顔立ちが整ってるのは今に始まったことじゃないけど、瞬きをするその仕草さえも、いつもよりなんだかくすぐったい。
───好きだなぁ……。
自覚した途端にこんなに溢れだしそうになる気持ちは、今までどこに隠れていたのか、私にはもう分からない。
フタを開けたら飛び出した初恋に、今はただただ戸惑うだけだ。