君の日々に、そっと触れたい。
「さて…そろそろウチは帰るで、りっちゃん」
「え、帰るの?」
夕実ちゃんの言葉に、子供たちに絵本を読み聞かせていた李紅が残念そうな表情で振り返る。
「そないな顔せんの。家も近いしまた来るわ。せやからりっちゃんもそろそろ病室戻ろか?」
「…んー……そうだね」
「えー!」
渋々頷いた李紅に、子供たちからは「もう行っちゃうの」と不満の声が上がるが、夕実ちゃんに「無理言わへんの!」とどやされて静かになった。
「ほなな、りっちゃん。桜ちゃん」
「うん、またね」
夕実ちゃんとあっさりとした挨拶を交わすと、私達はまた病室へと歩き出した。
すっかり夕暮れに染まった病院の廊下はなんだか静かで、私の足音と、李紅の車椅子の音だけが淡々と響く。
ナースステーションとデイルームのちょうど目の前にある、あの個室。ああ、あれが、例の病室か。
李紅はちらりとも見やることは無く、その病室の前を通り過ぎた。
病室に戻り、看護師さんに手を貸してもらいながら再びベッドに横になった李紅の顔色は、なんだかあまり良くなかった。
「大丈夫?李紅。どこか辛い…?」
「……ん。多分、痛み止め…切れてきたかな」
「また看護師さん呼ぶ?」
「…ううん。今入れたら夜中に切れてかえって辛いから」
まるでそうゆう経験があったかのように苦笑いをすると、運ばれてきた夕食にほんの少し嫌な顔をした。
最近、李紅はまた食が細くなったように思う。本人は暑いせいだと言っていたけれど、秋になったら食欲が戻るようにも、なんとなく思えなかった。
これからどんどん、食べれなくなっていくのだろうか。
「ねぇ………李紅」
「ん?」
「陽ちゃんのお墓参り、行きたい?」
嫌な思考を振り切りたくて、唐突にそう切り出した。
李紅は酷く驚いた顔をしていた。
「え、俺………桜に陽ちゃんの話とかしたんだっけ……?俺が忘れてるだけ…?」
真っ先に腫瘍のある自分の脳の記憶情報を疑う李紅に、慌ててそうではないと否定した。
「夕実ちゃんから聞いたの。それで、もしかしたらあのノートにも書いてあるのかなって思ったから」
「ああ、ううん。書いてないよ」
即答する李紅。
「え…なんで?」
「だって、現実的に無理だから」
「いやでも、わりと現実的に無理なこといっぱい書いてあるじゃん」
前にちらりと見たノートの内容を思い出す。
「バンジージャンプがしたい」とか書いていたけれど、そんなことをしたら最悪人工膝の手術の影響で骨が折れちゃう。
「100m走15秒で走りたい」なんていうのはどう考えても無理だ。だって李紅はもうほとんど走れないし。
それに比べたら、遠出してお墓参りなんて、キツイけれどきっとずっとずっと現実的だ。なのにどうして。
「だって、もうすぐ俺は同じところにいけるだろ?」
だからわざわざ会いに行かなくても、と李紅は何でもないように肩を竦めた。
私は妙に納得して、「そっか」と頷いた。泣きたくならない自分に、驚いた。
「……もう8月か。春は越せないって言われたけど、それって具体的に何月なんだろ」
「…………」
「ねえ桜、桜って言うくらいだから、桜の誕生日は春なの?」
「…3月9日よ」
「…そっか、じゃあそこまでは生きてるってことにしよう。誕生日、多分なんにもしてあげられないけど、おめでとう位は言いたいな」
「…………うん、ありがと」
不自然なくらいに自分の死を受け入れている李紅に、今更驚いたりはしない。
けど、そんな李紅をすんなり受け入れて、4月にはもう李紅は居ないんだという現実を、ちゃんと頭で理解してる自分には戸惑った。
だけどそれは、私が強いからじゃない。李紅の居ない世界なんてもう想像がつかないから、現実感を感じられないだけ。
だけど、そんなことはお構い無しに現実はすぐにやってくるんだ。
分かってる、分かってるよ。
ねえ だから、今やれることを精一杯しようよ。
「ねえ李紅、退院したら夏祭りに行こうよ。ふたりで」