ホワイトデー・カデンツァ
コンサート後に待ち合わせた鰻屋。
『重い曲で体力精神力を消耗した後は、鰻だろ』と、ホワイトデーに鰻屋。
といっても明らかに高級店。個室で懐石料理。
さっきまでとてつもない気迫と存在感で大きなホール全体を支配していた漆原建が、リラックスした表情で料理を平らげていく。
彼が紡いだ音楽はまだ私の中を巡っている。
大好きな音楽を大好きな人の演奏で聴いた幸福感と、今大好きな人とこうしていられる幸福感に、胸がいっぱい。
「で。まずは感想からきこうか」
ひとまず空腹感は満たされたらしい彼が、涼しい顔で切り出した。
とはいえ、素人がプロに対して何を言えばいいのか。
「……相変わらずスケールが大き過ぎてよくわからない曲だったけど、」
彼がくすりと笑った。
珍しく、馬鹿にするようなものではなくて、同意するような笑い。
「ひたすら美しくて、神々しくて、作った人も演奏する人もすごいなって圧倒されて、聴き惚れてる間に終わっちゃった」
彼がうなづいて、次を促す。
「3楽章ラスト、この時間が永遠に続いたらいいのに、時が止まればいいのに、って思った」
すると、彼は今度は切なそうに微笑んだ。
「音楽は、消えていくから美しい」
私の左手に、彼の手が伸びてきた。
神様から選ばれた指先が、指輪をそっとなでる。
「音楽は、物理的には永遠と正反対の位置にある。その世界で生きる自分が、目に見えない気持ちを、永遠に存在しうる形あるものに託したいと思ったのは初めてだ」
……うわぁ。
こんなに素敵なプロポーズ、きいたことがない。
さすが漆原建だ。
あまりの幸福感に目眩がする。
「で? そちらの続きをどうぞ?」
彼は一転意地悪く笑っている。
……もう。
私の左手を包む彼の手に、私の右手を重ねる。
こんな日は一生に一回だ。
ドキドキしすぎて心臓が痛い。
「自作のカデンツァ、一回聴いただけじゃよくわからなかったから、また聴きたい」
「ということは?」
「…………」
「さっさと言っちゃえよ」
……だめだ、緊張に慣れていない一般人、人生の一大事に弱い。
「……ねぇ、指輪、サイズぴったりだったけど、どうしてわかったの?」
「ヴァイオリニストの指の感覚なめんなよ」
「……うそ、すごい……」
「信じたか?」
「え、嘘なの?」
「さぁな」
「え、どっち?」
「さて、そろそろ答えをきかせてもらおうか」
「………………これからもよろしくお願いします」
私が言葉を絞り出すと、彼は勝ち誇ったように笑って、私の左手の薬指にキスをした。
fin.