Room sharE


支払いは彼がしてくれた。私の最初の一杯分まできっちりと。


「いい女に出させるわけにゃいかねぇ」とへらへら冗談混じりで言いながら高級ブランドの長財布から万札を数枚取り出てたっけね。


「どこの江戸っ子よ」と言いたかったけれど、口に出したのかどうかは分からない。つまり私もそれだけ酔っていた。


二人してマンションまでの道を帰るのは酷く危険だった。文字通り。


と言うのも、私もタナカさんも足取りがおぼつかない。


あっちへよろよろ、こっちへよろよろ。


幸いなことに裏道だったから人が多いわけではなかった。道行く人に不審な目で見られなくて済んだのは良かったけど、でも……見られたい気持ちもある。


後先考えずバカみたいに飲んで笑って、まるでこの一瞬自分がお酒を知ったばかりの小娘に戻ったみたい。危うさとほんの少しの高揚。恥ずかしいような自慢したいような。


ユウキとは……こんな風に楽しく飲んだこと一度も無かったから。


彼と飲むといつもうだつの上がらないミュージシャン生活の愚痴を聞かされたわ。私は黙って聞いていた。


出逢ったばかりの当初は夢に向かう彼の姿がキラキラと眩しくて、輝かしくて―――羨ましかった。その時の彼は最高にかっこよかった。だって私にはそこまで夢中になれる何かがなかったもの。


でも付き合って行く内にどんどん雲行きが怪しくなった。定職につかず、日雇いのバイトをしては飲んだくれて帰ってくるようになった。


一向に芽が出ない彼の音楽家としての生活に、彼自身が辟易していたようだ。その憤りと不満を私にぶつけるようになったのもこの頃。手こそ出なかったものの、顏を合わせると『お前は恵まれてていいよな。生まれてこの方苦労なんてしたことないだろ。お嬢様!!』と酔っては大声で喚き、(確かにそうだったから反論の余地もなかったけれどネ)


そんな機嫌が悪い日、彼は私を強引に抱いた。強引で、そして機械的な愛撫に当然気持ち良くなれる筈もなく。


いつしか私たちの仲は冷凍庫のように冷え切っていた。


そんなとき見かねた私が知人の有名音楽プロデューサーを彼に紹介した。プロデューサーの口添えもあってか小さなハコで細々バンドを組んでいた彼は、徐々に大きなライブハウスで演奏できるようになった。CDも一枚だけ出した。


才能があったわけではない。私が言うのもなんだけど知人のプロデューサーの力が働いたからだ。そのプロデューサーの彼とは昔数か月付き合って居たことがある。もちろん男女のお付き合いよ。そんなことユウキは知らないけれど


なかなかいい男だったけれど、残念。この男、音楽家としての腕は一流だったけれど、ベッドでは三流だったわ。


と、まぁ過去話は置いておいて…それから彼……ユウキは変わった。昔の生き生きとしたかつて私が愛したその姿に戻って行ったけれど、


―――同時に私は彼の愛情を失った。新しい女ができたのだ。


相手は駆けだしの雑誌モデル。若い子に絶大な人気を博しているとか。華やかな業界で華々しく活躍していると、それなりの人脈や人間関係が構築されるわけで。当然ながらその甘い誘惑はユウキにも及んだ。


どこでどう失敗だったのだろう。


私が知人の音楽プロデューサーを紹介したから?それとももっと前?まともに働くことを勧めて、ミュージシャンなんてとりとめのない夢を捨てるべきと説得すべきだった?


――――分からない。


分かるのは私が『間違えた』ことだけだ。



タナカさんは何が楽しいのか調子外れの鼻歌を歌い、よろよろと危うい足つきですぐ隣を歩いている。彼のスラリと高い広い背中を、一歩下がって眺めながら、何だかそれすらも楽しかった。


最初は何のメロディを口ずさんでるのか、それが今流行りの流行曲なのか、それとも古い演歌なのか、それともオペラなのか何なのか分からなかった。


けれど静かな道路に響き渡る、彼の低い声が紡ぎ出すメロディに耳を傾けて





それが古いフランス映画で流れていた、これまた古いフランスのシャンソン歌手の曲だと気づいたとき


私の足はぴたりと止まった。






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