Room sharE
でも。危険な予感がしていても甘い……甘い――――誘惑に、私は打ち勝てない気がした。
「そう言えば、この前忘れていった万年筆返す予定で昨日会社を訪れたのよ」
私は忘れないうちに万年筆が入った紙袋を一つ取り出して、彼に手渡した。
「そうだった~どこかへ忘れたと思っててサ。すっごい探してたんだよ。君が持っててくれたんだね」
「高そうな万年筆だったから、すぐにお返ししたかったんだけど」
「いやいやそんな高いもんじゃないよ。サラリーマンの安月給だしな」
タナカさんは恥ずかしそうに……少年のようにはにかむ。可愛いし。男の価値は高給取りかそうじゃないかで決まるわけないわ。中にはそうゆう面を重視する女性もいるだろうけど。
でも私はそのままのタナカさんで充分よ。
「ありがとう」と言って受け取り、すぐに「さっむ!」
と言いながら手をこすり合わせるタナカさん。白い息が寒い冬の空気の中ふわふわと漂っている。
「寒……」タナカさんはもう一度言って私の方を見やる。何かを欲しがる子犬のような眼に、思わず庇護欲を掻きたてられる。可愛い……
それでも私が何も言わないと、「寒くないの?」と問いかけてきて、「寒いわよ」と答えると、すかさずタナカさんの手が私の手に伸びてきた。今度はまるで甘えん坊の子供のように。
私はその手を払いのける――――ことはできなかった。
「こうするとサ、あったかいんだよ」
当たり前のことを、まるではじめて物事を知った少年のようにキラキラした目で言われて、何だか払いのけることができなかった、と言った方が正しいかしら。
タナカさんの手は『寒い』と言ったにも関わらずとても温かかった。
指と指の間にタナカさんの細く長くきれいな指が絡まり、俗に言う恋人繋ぎと言う形で私たちは手を繋ぎ合った。
払いのける理由は―――なかった―――
私はきっと心のどこかでタナカさんの温もりを欲していたから―――
ユウキの手はいつも冷たかった。まるで彼の心の中を現すように。それは今でも同じ。いいえ、同じどころか最近は手を重ねることもなくなった。『冷たい』と感じることもなくなった。
私の冷たくなった手を温めてくれる人は―――もしかしたら最初からユウキではなかったのかもしれない。
そんな風にさえ思えてきた。
「……寒いね」タナカさんはそう続けて、はにかんだように…白い歯を見せてた顔を向けてきて、心臓の奥がきゅうきゅう締め付けられる思いがした。それはまるで恋を知ったばかりの少女のような、どこか甘酸っぱい想い出を蘇えらせる。
「昔さ……俺がまだ中学生だった頃の話だけどサ」
タナカさんは唐突に話しを切り出した。
「初恋だったんだ―――
相手はクラスの女の子でさ、これが結構可愛くてクラスの男子が結構狙ってた。俺もその一人」
タナカさんはその少年に戻ったようにあどけない笑顔を浮かべて「へへっ」と悪戯っ子のようにペロリと舌を出す。
「幸いにも相手も俺のこと好いてくれてて、それではじめて付き合うことになった。
でも13、14の中坊に当然金なんてなくてサ、今みたいにラブホテルやカラオケボックスなんてのも当然いけなくて……よく公園のベンチで二人で手を繋ぎ合ってこうやって長い時間お喋りしてた。
そのときも寒い時季でサ、『寒いね』って言い合いながらも何だか楽しくて、二人で手を繋いでホットココアの缶を半分こした」
私は何故タナカさんがこんな話をし出したのか分からなかったけれど、その理由を考えるより、タナカさんの過去の……それはそれは幼い恋を頭の中で思い描いた。
黒い学ランに、セーラー服の年若いカップルがベンチに座り、身を寄せ合う姿を。それはとても微笑ましいことだった。
私の―――
私の初恋はタナカさんと同じく中学生のときだった。相手はサッカー部のキャプテンで、バレンタインに思い切って手作りチョコを上げて告白した。結局、その返事は貰えずだったけれど今から考えたら良い想い出だ。
「不思議だよな。そのときより行動範囲も広がったし、行こうと思えばどこにでも行けるけど
あの時より距離が遠のいた気がするんだ。俺はきっと大切な何かを一つずつ失ってる気がする。
人間てサ、何かを手に入れたら何かを失うんだよ。うまくできてるよホント。
でもさ……君と出会ってその失った“何か”をこうしてまた手に入れてる気がするんだ」
タナカさんは大真面目に言った。
その黒い瞳の中に、私が映りこんでいる。タナカさんは確かに中学生の頃、ホンモノの恋をした。それと同じものを私に向けてくれている。
そんな風に思えた。