能ある狼は牙を隠す
靴を履き替え、言いつつ彼の横を通りすぎる。
「待って」
右腕を引かれて、くん、と後ろに重心が傾いた。
見上げた先の狼谷くんと視線が交わる。
彼の睫毛は震えていて、眉根は苦しげに寄せられていた。
僅かに開いた口から酸素を取り込んでは、思い詰めたように息を吐き出す。狼谷くんは何度かそれを繰り返した後、静かに告げた。
「好き」
たった二文字。それを放つ間にも、声は終始揺れていて。
こんなに質量のある二文字を受け取ったのは、恐らく人生で初めてだった。
静寂が広がる。
自分が黙っていたのは数秒だったのか、それとも数分だったのか。それすら危うい。
「俺、羊ちゃんが好き」
固まる私に、狼谷くんは再度そう言った。
耳からじわりと熱い感覚が体を蝕んで、辛く息苦しい。
彼のいつもは白い頬が、嘘みたいに赤かった。
「……ごめん。都合良すぎる、よな」
付け足されたその言葉が、急に他人行儀で。一気に分からなくなってしまった。
それは一体、どういう意味なのか。彼の意図をはかりかねて、ひたすらに困惑する。
狼谷くんはそっと私の腕を離すと、苦い顔で俯いた。
「……狼谷くん、」
動き出した自分の手はワンテンポ遅く、彼を掴み損ねて空気を切る。
私の横を過ぎる時、狼谷くんからはオレンジの匂いがした。