能ある狼は牙を隠す
あと数歩という距離まで迫ったところで、耐えきれずに顔をしかめた。何の香水か知らないが、匂いがきつい。
彼女の胸下まである艶やかな黒髪が揺れる。
「もう私には飽きちゃった? こないだのが気持ち良くなかった? だったら直すから……お願い、無視しないで」
縋るように俺の腕を掴んだその手を、反射的に振り払った。
あからさまに悲しげな顔をした彼女に、心底うんざりする。
「やっぱり、あの子の方がいいんだ……? 噂は聞いてたけど、本当だったんだね」
でも、と奈々は続けた。
「私、本命じゃなくてもいい……二番目でも、三番目でもいいから……だから、」
最後まで聞く気も失せる。
俺は彼女の横を通り過ぎると、そのまま奥へと足を進めた。
途端、奈々が慌てた様子で追いかけてくる。
「ま、待って玄! そっちは――」
下から二段目の、右から三段目。いつも屈んで上靴を取り出す動作を何度も見てきた。
あの子のことは穴が空くほど見てきたから、下駄箱の位置くらい分かる。遠慮がちに柔らかく笑う、大切な大切な女の子。
「そっちは、何?」