能ある狼は牙を隠す



「先輩、もっと触って下さい」


その日もクラスの作業が終わって、階段を降りている時だった。
聞き覚えのある声に、無意識のうちに足を向けていたのを覚えている。


「触って……えーと、支えての間違いだと思うんだけど……」


廊下の真ん中。連れ立って歩く二つの人影に、全身から血の気が引いた。

保健室へ入っていくところを目撃し、足早に追いかける。ドアノブを掴んだところで、我に返った。

開けて入っていってどうする。そいつは絶対に仮病だから放っておけ、とでも言えばいいのか。あの一連の流れはただの介抱にすぎず、俺が何を言おうがどうしようが、完全に邪魔者扱いになるのは目に見えていた。


「わっ……!」


一人悶々と悩んでいた最中、ドアの向こうから羊ちゃんの声が聞こえた。
その瞬間、言い訳や建前が全部吹っ飛んで。思わずドアノブを捻った。

控えめに開けたドアの隙間から見えたのは、彼女の背中とその腰に回った腕と。
やがて男の背中に手を伸ばした羊ちゃんに、胸の奥が焼け焦げた。


「犬飼くん、大丈夫。どこにも行かないよ。大丈夫だから」

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