能ある狼は牙を隠す
根を詰める必要がないくらいの進捗である、というのがもちろん一番大きな理由だけれど、彼に言えない理由が実はある。
保健室で犬飼くんと話してからというもの、時折彼が全く違う人物に見えてしまうのだ。翳った表情に、低い声。そして狂気にも似た色を孕む瞳。
全身ぞわりと鳥肌が立って、その度に脳内は危険信号を発する。
「ねえ、先輩」
耳元で彼が言う。
「どうして泣いてるんですか?」
背筋に悪寒が走った。
弾かれたように顔を上げた私を、犬飼くんは人工的な笑みをたたえて眺めている。
「もう邪魔な虫は全て排除しましたよ。先輩に近付く邪な奴はいない。何を憂うことがあるんです?」
意味が、分からない。
「安心して下さい。あんな下心しかないような男、そのうち二度と先輩の目に入らないようにしておきますから」
「……何の話を、」
「ああ、可哀想に。存在すら忘れられたんですね、あの男。大丈夫です。先輩は何も知らなくていい。綺麗なままでいて下さい」
ひたり、ひたりと迫り来る憂惧。
指先が酷く冷たい。彼から目を、離せない。
「綺麗だなあ、先輩の涙。なんて美しいんだろう……下衆のために流すなんて勿体ない」