能ある狼は牙を隠す
狼谷くんは言いつつ首を振ると、数歩近付いて私の頭を撫でる。
「ここ、ふわってなってる。走った?」
どうやら直したつもりが、まだ乱れていたらしい。
えっ、と声を漏らして腕を上げた私に、彼は目を細める。
「……ほんと、好き。何でそんなに律儀なの」
「律儀……? いや、あの、むしろ遅れそうだっただけで……」
「だって俺のために走ってくれたんでしょ?」
狼谷くんの問いかけに、緩慢に頷く。
まあ確かに、言いようによってはそうかもしれないけれど。寝坊した自分が悪いだけだ。
「走んなくても、急がなくてもいいんだよ。いくらでも待つ。来てくれたのが嬉しい」
彼の手が私の頬を包む。薄い唇が緩やかに弧を描いて、満足そうに微笑んだ。
交わる視線に負けたのはまたしても私で、狼谷くんの細い足を眺めつつ口を開く。
「……狼谷くん、ずるい」
「え?」
そんなに嬉しそうに笑わないで。甘やかさないで。
ずるずると沼に引きずり込まれていくように、その蜜に溺れてしまいそうになる。
「私、だめ人間になっちゃいそう」
狼谷くんがくれる言葉に、愛情に、もう恥ずかしいと思えなくなってきた。
その声を聞く度、手が触れる度、素直に「嬉しい」が募る。とりこぼしたくないって、そう思ってしまう。
やっぱり、私はとても欲張りだ。
「――いいよ」