能ある狼は牙を隠す
母はいつも一人だった。
家事も、仕事も、俺のことも。全て背負って、それでも決して愚痴は言わなかった。
だから俺は、一人だったんじゃない。ずっと守られていたのだと思う、母に。
「……うん」
父さん、と。あの人をそう呼ぶには、整理と勇気が必要だった。
初めて会ってからずっと、俺は誤魔化し続けて、でもそれを咎められることはなかった。
「父さんに言っといてよ」
「え?」
「早く帰って来ないと父さんの分も俺が食うぞって」
言ってみると意外としっくりくる。
父さん。言えた。多分、あの人にも言える気がする。
「玄……」
呆けた様な声が、俺の名前を呼んだ。
何か堪えるように唇を強く噛み締めて、母は頷く。
「うん。言っておくね」
眉尻を下げて微笑んだ瞳が、薄らと潤んでいた。
今更に居心地が悪くなって、「着替えてくる」と踵を返す。
しかし、再びリビングに戻った後、先程とは打って変わって母の表情が曇っているのに気が付いた。
「……母さん?」
俺が声を掛けると、我に返ったように顔を上げる。
「あ、……ごめん、玄」
母は言いづらそうに顔をしかめ、それから告げた。
「いま連絡があって……お父さん、ちょっと遅くなるって」