能ある狼は牙を隠す
ぼさっと立ち尽くしていたからか、狼谷が部屋の奥からそんな言葉を投げてきた。
津山と俺の会話を聞いていたんだろうか。一応気は遣ってくれているようだが、彼が立ち上がる気配はない。
「ああいや、ほんとに大丈夫。悪いな」
「あっそ」
会話終了、だ。決して居心地が良いとは言えない沈黙が訪れる。
俺はこの狼谷玄という男が、春から今までずっと苦手だ。とっつきにくい、というのは勿論そうだが、至って真面目に生きてきた自分からすると、彼の言動は理解に苦しむものが多すぎる。
それとは別に、たったさっき、彼と居合わせたくない理由が増えた。
彼と同じ文化委員を務める、控えめな女子生徒――白羊。彼女と狼谷は文化祭を機に付き合い始めた、ともっぱらの噂で、他人の色恋沙汰に興味がないと自負している俺でも知っている。
そんな彼女とすれ違ったあの瞬間。彼女の泣き顔を見た、たった数秒間。
今まで経験したこともない高揚感に襲われ、自分の性別をまざまざと思い知らされた。
脳を直接殴られたような衝撃にも等しい。じくじくと甘い痛みが体を蝕んで、全身の血が熱く滾るのを感じた。
『心配しなくても傷一つつけないから、安心しろ』
分かっている。彼女にはきちんと相手がいて、それをわきまえないほど自分は愚かではない。
頭を振って、未だ燻る劣情を切り落とすように深く息を吐いた。