能ある狼は牙を隠す
少し元気がないな、と思った。
彼は私の名前を呼んで、遠慮がちに続ける。
「今から俺と、ちょっとだけ逃避行してくれない?」
「……え?」
全く意図を汲み取れずに、間抜けな声が出た。
いやだって、本当に意味が分からない。逃避行って。何かの比喩なのか、はたまたそのままの意味なのか。だとしたらどうするのか。
「はい、これ」
差し出されたのは切符だった。視線を落とす。
快速列車、行き先は意外と遠い駅。快速じゃなく、普通のものに乗ったら一時間半くらいかかるんじゃないだろうか。
「悪いけどあんまり時間ないんだ。行くよ」
「えっ、え、あの、」
彼にしては珍しく、強引に腕を引いて歩き始めた。慌てて口を開く。
「ごめん、坂井くん! 私、このあと予定というか、約束があって……」
焦って早口になってしまう。
坂井くんはそんな私を一瞥すると、「うん、知ってる」と頷いた。
「狼谷と会うんでしょ? あいつから許可はもらってるから、大丈夫」
「何で、知って……」
というか、許可って何だろう。玄くんからの許可? 私と坂井くんが会うことの?
――それって、もう本当に私のことどうでもいいってこと?
一気に目の前が暗く塗り潰されて、呼吸が浅くなっていく。
抵抗する気力も理由もなくなりただ黙って引っ張られる私を、坂井くんはどことなく苦しそうに眺めていた。