能ある狼は牙を隠す
坂井くんが言った。
列車が止まって、人が乗降口に流れていく。
初めて降り立った駅は少し閑散としていて、紺色のベールがかかったように辺りは落ち着いていた。
目の前を歩いていた背中が急に立ち止まる。不審に思って顔を上げ、坂井くんの様子を窺った。
その視線が真っ直ぐ前を向いていて、つられて追いかけ――息が、止まった。
「玄くん、……どう、して」
私は幻を見ているんだろうか。それでも、幻でも夢でも何でもいい。
難しいことなんて全部消し飛んで、私は今日、この人に会うために生きてたんだなって、そんな馬鹿みたいなことを思う。
玄くんはこちらへ向かって歩いてくると、笑っているとも、困っているとも、泣きそうだとも言えるような表情で、私を見つめる。
「羊ちゃん」
ああ、私、この人に呼ばれるのが、こんなに好きだ。
春先のそよ風みたいに心臓を温かく撫でる響きが、今までも、これからもずっと好き。
「俺、色々と彼氏失格だけど……ちゃんと、けじめはつけてきた」
「……うん」
「話したいこと、沢山あるんだ。聞いてくれる?」