能ある狼は牙を隠す


突拍子のない質問に、彼女は眉をひそめた。
驚いて返す言葉もないのか、俺の意図を探るかのように瞳をじっと覗き込んでくる。


「俺は、羊ちゃんのためなら死ねるよ」


比喩じゃない。誇張しているわけでもない。我ながらくさいが、本気でそう思っている。


『死ぬとか言わないで』


あの日、俺の手を掴んだ彼女の言葉を思い出す。
死なないよ、と。彼女の前では取り繕ったが、あながち嘘でもなかった。

また彼女に怒られてしまうだろうか。自分を犠牲にするのはやめろと、大切にしなさいと、怒鳴られてしまうだろうか。
でも、それでもいい。俺は彼女に怒られている時、どうしようもなく愛されている気がするから。


「多分、『好き』って、そういうことなんだと思う」


少なくとも、俺の「好き」はそういうことだ。人それぞれ違うにしたって、そうでありたいと思う。


「……奈々も、本当に好きになったら分かるよ」


あるいは、自分なりの「好き」を見つけるかもしれない。
まだ見つけていないだけ。それが俺じゃなくて、俺だと錯覚していただけ。

背を向ける。そのまま歩き出した俺を、奈々は咎めなかった。


「玄」


階段を下りる直前、芯のある声が飛んでくる。


「ばいばい」


そこに「また」のニュアンスは含まれていなくて、俺は振り返らずにその場を後にした。

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