あなたがすきなアップルパイ
王子様がいつまでも迎えに来てくれない物語なんて、誰にも読んでもらえない。それは人々の心を満たしてはくれないから。
だけど、そんな物語が遥か昔から人と人との間で紡がれ、小さな世界が生まれた。いつまでも愛しい王子様は現れず、お姫様になれなかった女の子の悲しい物語だって日の目を見ることなく星の数ほど紡がれた。
莉子だって今の恋人と出逢う前は、悲しくもお別れをした運命を感じた人がいた。
どんな人も最初は赤い糸で括られた莉子の運命の人だと疑わなかったから、新谷ともいずれ亀裂が生まれることを恐れていた。
どんなに深い愛にもリスクはあるし、それは深くなるほどに双方の間に深く溝を作るきっかけとなり得た。
「だけど、結婚だけが女の子の夢っていうならそうじゃない。女の子にはいろんな可能性があるもの。ここにいる子達だってそう。この小さな箱庭に集まって、毎日たくさんのキラキラしたジュエリー達を作り上げて、甘い香りに誘われてお店の扉を叩くお客様に笑顔を届けている。彼女達それぞれにいろんな夢を持って、この『Anna』で働いてくれている」
とても嬉しいことのように、彼はそう語る。
王子様を待ち望むお姫様よりも莉子にはずっと眩しく輝いて見える、彼の夢を語る横顔。
自分のお店を開いて、大好きなお菓子に囲まれている御堂のことを、莉子は心底羨ましく思う。
そして、自分には彼のように憧れた夢を追い続ける力があるだろうか。
不安に感じるのは、莉子には自信がないからだ。
「店長は、ご結婚されているんですか?」
莉子がちらりと見た彼の細長い薬指に、光る指輪はない。
「そういう女の子らしい夢に憧れた時期もあったけど、それよりも私にしかできない夢があると思うの」
珍しく自身の身の上の話をしてくれた御堂に莉子は密かに親しみを感じながら、ショーウィンドウに飾られたお菓子達にも劣らない華やかさと甘い香りを漂わせるその人に目を向ける。
間近で対面すると180cmもある背丈を仰ぐように、彫刻品のように緻密なバランスの顔を見上げる。
「店長にも、まだ叶えたい夢はありますか?」
この『Anna』でいろんなものを手に入れて、順風満帆に莉子の目に映る御堂にも、目標を高く掲げて成し遂げたい憧れなるものが、密かにあるというのか。
莉子の口から小さな飴玉がコロコロと転がるように出た些細な疑問に、おかしな冗談を耳に入れたように御堂が笑う。
「もちろん、あるわよ。貴女達が毎日このお店で楽しく働いてくれること、遊びに来てくれたお客様に最高の幸せをお届けすること、たくさんあって数えたらもうキリがないわ。でも、一番の夢は内緒。秘密は女の子を一番美しく魅せてくれるからね」
茶目っ気たっぷりに御堂が魅惑のウインクを莉子に投げる。お店に並ぶドレスアップしたお菓子がどれも霞んでしまう。
魔性の彼の甘い舌に虜になる常連客もかなりいるはずである。
漠然とある夢を、莉子は目の前にある色とりどりの宝石のように輝く洋菓子達の甘い誘惑に惑わされず、愛しい王子様一心に向けられるだろうか。