あなたがすきなアップルパイ
この恋の賞味期限
07.甘いだけが恋じゃないんだね
新谷からプロポーズを受けた後日の出勤。
洋菓子店『Anna』で通常勤務をこなす最中も、先日の求婚の件がチラついて目の前のお菓子のデコレに集中できない。
――――――莉子。俺と結婚してくれるか?
「ブッ!」
お菓子の上に模様を描いて飾りつけられる純白の生クリームが、莉子の顔面に飛びかかる。
手にしていた生クリームの絞りの加減を間違えて、中身が飛び出してしまった。
生クリームだらけになった莉子を見て、厨房でそれぞれの役割をこなしていた同僚達も思わず手を止めた。
「莉子、大丈夫?」
「生クリーム直撃……」
「漫画かよ」
ケラケラとからかってくる同僚達にバツを悪くしながら、そのむくれた顔にべっとりとついた生クリームを腕で擦る。
この手で丹念に繊密に泡立てた純白のそれは、女の子が憧れるドレスが一番栄えるようにシルクのレースをあしらった絶品なるエッセンス。ドレスに彩りを添える甘い装飾品。
『Anna』に日々訪れるお客様を、その一口で幸せにすることができる、これは莉子が誇れるささやかな魔法だ。
一口舐めると、心を満たす甘くて羽根のように身軽で、優しい味がする。
この幸福を、大勢の人々に届ける自身の役目を莉子はずっと心から嬉しく思うのだ。
「試作案の見直し、そろそろ出してほしいからよろしくね」
「わかりました」
すれ違い際に店長の御堂から肩を叩かれ、それに空返事で莉子は応じる。その暗い顔色を見て、御堂はついついちょっかいをかけたくなってしまう。
「最近身が入ってないわね。元気にしてる?」
「あ、はい。少し行き詰まってて……」
困ったように笑う莉子を見透かして、その反応を窺った彼の目つきは憎たらしい悪戯っ子のように細くなる。
「そうよねぇ。本気の恋に振り回されたらそれはもう大変だもの」
「え? どど、どうしたんですか急に……」
「莉子ちゃんの顔にそう書いてあるわよ。あぁ〜あ、ヤダヤダ。女の子のお悩み事は胸焼けしちゃう」
茶化されたと厨房へ消えていく御堂の後ろ姿を見送りながら、莉子は決断するべき答えにまだ迷う。
莉子がそれを告白すれば、御堂は今のように剽軽な彼らしく莉子を祝福してくれるだろうか。
直面する現実は、甘くないものだ。
――彼のプロポーズを受ければ、必然的にここを辞めることになる。せっかく徹夜を惜しんで通った莉子の企画も、途中で降ろされてしまう。
パティシエとしてここまで目指してきたものが、日の目を見ずに幕を閉じてしまう。
莉子もこの仕事を選んだからには、並ではないプロ意識で仕事に向き合っている。一所懸命にやるからには結果を残そうとしていた。
たとえ今の恋人と結ばれることになっても、自分が満足がいくところまでとことん這い上がる覚悟で製作に打ち込んでいたのに、そこから無条件に引きずり下ろされてしまう。
昔の夢を叶える代償は、これまでのお菓子作りに懸けた栄光を手放してしまうことだと、莉子は頭で理解していた。