あなたがすきなアップルパイ
夜遅く彼と暮らすマンションの部屋に帰ってきた。
莉子がちょうどリビングに上がると、彼が明るいテレビの画面を消して立ち上がる。
「アップルパイ、持って帰ったよ」
右手に掲げた『Anna』のお店の箱を、新谷によく見せる。しかし、彼の反応は思ったより素っ気なくて、そして彼は白い箱から静かに目を逸らす。
「……悪い。そういう気分じゃないんだ」
「……そっか。わかった」
呆気なく莉子は引き下がって、肩にかけたハンドバッグとともにリビングのテーブルにそれを置いた。荷物をおろしたのにどうしてか肩は重いまま、気分はなんとなく沈んでいた。
莉子にも彼の思うところは察していた。ああは言ってくれたものの、いつまでも恋人にプロポーズの返事を焦らされては、大なり小なり男のプライドが傷つくはずだ。
どうして仕事より真っ先に自分を選んでくれないんだと、腹の底では気が気でなくて、やり場のない苛立ちを隠せないだろう。
先に寝室に踵を返そうとした新谷は、ふとその口を割った。
「あと、明日から来月まで神戸に出張なんだ。しばらくの間は、ここを空けるだろうから」
「えっ……」
新谷の突然の話に、内容がすんなりと耳には入ってこない。莉子は言葉を失うまま、恋人の顔を見返していた。
しばらくは彼の顔を見ることができないと思うと、寂しくて、少しホッとした自分がいる。
こんなに卑しい自分は、本当に彼のフィアンセに相応しいのだろうか。
「だから、それまでに考えておいてくれ」
うん、とは素直に頷くことができなかった。こんなに素敵な恋人を突き放している自分がいるなんて、と自己嫌悪に陥る莉子に、手を伸ばして身体を引き寄せる。それでも彼は愛した恋人に優しく接してくれるのだ。
「……莉子。俺には君が必要なんだ。仕事で辟易した日も、あの店で君が見せる笑顔が、俺を癒してくれた」
彼の熱い息がかかるほどの至近距離で、囁かれる。冷たいレンズの奥は、一途に莉子を求めてくれている。
やがて、深い口づけを重ねる。
愛し合った恋人なのだから、彼といつも当たり前のようにやっていたことなのに、今は彼に求められることが辛く感じてしまう。
「おやすみ」
唇をそっと離すと、最後に軽く彼から口づけをもらい、そう言って寝室に新谷の姿が消えていった。
リビングに一人立ち尽くした莉子は、夜食もシャワーも後回しにして箱からアップルパイを取り出すとそのひと切れを一口頬張る。
いつも食べていたそれは、この日とても味気なく感じた。