あなたがすきなアップルパイ
都内の一頭地に本社のビルを構える商社。
新谷はそこにある階のオフィスに勤めている。
来期の異動を宣告されてから、一月が経つ。恋人の莉子へプロポーズしたのは、宣告をされてから二週間後のことだった。
異動の話があったのは、ちょうどあの夜のことだった。自分のためだけに、アップルパイを作ってくれると言ってくれた恋人の告白。
矢先のことで、あの時は新谷もすぐには答えが出せなかった。恋人の半生を預かるには、それ相応の覚悟をする必要がある。彼の中にも様々な複雑な思いが絡み合う。
しかし、新谷もこうなれば腹を括ろうと、決心が着いた。心から愛した彼女となら、お互いの人生をかけられると、新谷は答えを出したのだ。
けれど、そう思っていたはずの恋人は、新谷の求婚に心から喜んでくれることはなかった。
新谷の気持ちと、誇りにかけた自分の仕事の狭間で、彼女の心は大きく揺れる。
それでも必ず自分を選んでくれると、新谷は思っていた。だが、愛した恋人は、あの場で自分を選んでくれることはなかった。
春に自分が企画したお菓子が、お店に並ぶんだと目を輝かせるのを目の当たりにして、新谷の内心はとても苦いものだった。
「新谷、例の件はどうだ?」
新谷に異動の話を告げた上司が、彼の前に現れる。自販機の前で悩ましげにしている彼に手を振る。
新谷の脳裏には、一月前この課長の男に呼び出された日のことが想起される。
呼び出された部屋で、テーブルに置かれた自身のドイツ支社への異動が告げられた書類を手渡された。
「君なら上手くやってくれるよ。期待している」
上司はそうやって彼を励まして、新谷の肩を叩く。新谷の真横を颯爽と通り過ぎる男に、彼は会釈を返すことしかできない。
一方的にそれを突きつけられ、しかしそれは栄転であっても新谷が自ら望んだことではなかった。
この度の海外進出は、この企業における一大プロジェクトであることは確かだ。彼もそのことは、重々に承知していた。
しかしこのプロジェクトに彼が選ばれた理由は、不純なものだ。
国外の地という大幅な飛躍でありながら、それは家庭がある者には大きな負担であった。そこから候補を振り落とし、未だ独り身である新谷が選ばれてしまった。
解釈としては上の身代わりとなって、新谷は未開拓の地へと赴くのだ。
もちろんそれ相応の実績が彼にはあると認められたことにはなるが、長く連れ添う恋人のことが彼の根底にあり、新谷の気持ちは前向きにはなれなかった。