あなたがすきなアップルパイ
新谷の来期の異動の一件は、あれから社内でもすぐさま噂で持ちきりになっていた。
若手のエージェントと社内で評判の彼には、陰ながら支持している女性社員も多くいる。密かに彼を狙う女達は、この機会に特に目を鋭く光らせている。
「新谷さん、お時間があれば、今度二人きりでお食事はいかがでしょうか?」
先日の発表の件以来、この手の誘いは連日彼のもとに申し込まれていた。そのどれも、彼は全て蹴っていた。
肩を落としながら新谷のもとを去る女性の後ろ姿を見送る傍らで、新谷は自らの歯痒さを感じていた。
なんとも思わない女には今まで飽きるほど言い寄られたのに、たった一人、本気で心から愛し尽くした人には、男のプライドを懸けたプロポーズだったが、今日までOKの返事を受け取れずにいる。
新谷は、これまで誰かに執着することはなかった。自分自身のことを完璧なる利己主義者だと思っていたが、彼女との『Anna』での出逢いから、それを覆された。
自分以外の者を大切にすることに充実感を覚えることがあるなんて、彼女と会うために『Anna』の戸を叩く度に、自分でも戸惑うことばかりだった。
一途に彼女のことだけを見ているのに、この想いはちゃんと届いているのだろうか。
今も『Anna』のお店の制服で、ひとつひとつのお菓子と懸命に向き合う彼女の姿を思い浮かべて、彼女の誇りを奪うやるせなさに新谷はカラになった空き缶を握り潰していた。