あなたがすきなアップルパイ

08.酸いも甘いもまるごと詰め込んでみたら?


 朝早く店の前にCLOSEと札を掲げた『Anna』の厨房――。
 莉子の目の前には、春にお店に出すお菓子の試作品が完成している。完成品となるまでには、これから段階を踏んで『Anna』の店長である御堂からのGOサインが出る必要がある。
 
 しかしようやく完成した試作品を、この日御堂に試食してもらう時も、アドバイスを受ける時も、莉子の意識は別のところに向いているようだった。御堂は素早くそれに気づくと、にこりとひとつ微笑んで彼女に尋ねた。
 
「どうかした、莉子ちゃん?」
 
「あ……いえ、すみません」
 
 そうは謝るものの、莉子の浮かない表情を見てどうしたものかと御堂も手をこまねいた。このまま試作品の話を続けても、身が入らないようであれば、これ以上実になるものはない。
 どうにか莉子が目の前の課題に集中できるようにと、御堂は彼女が抱える悩みに付き合うことにした。余計なお節介だとわかっているが、彼もなかなか嫌いじゃない性格だ。
 
 
「ホントのところはどうかしら? もしかして先日うちに来てくれた彼のことなんじゃなあい?」
 
 
 御堂が少しからかうと、莉子の手に固く握られた生クリームの絞りが、潰れたように不快な音を立ててグシャりとへし曲がる。噴き出した白い生クリームがかかったケーキは、とてもお店に出せるような代物ではなくなってしまった。
 
「ああいう人が、莉子ちゃんの旦那になるのかしらぁ?」
 
「いえいえ、まだそこまでは……」
 
「てことは、ゆくゆくはそうなるのかしら?」
 
 鋭く図星を突かれて、莉子は押し黙る。少し考えて、再び口を開くと、御堂の涼しげな目元をじっと見て聞いてみた。
 
 
 
「店長は、好きな人と結婚できるなら、どちらを選んだんですか?」
 
 
 
 
 変なことを聞いてしまったと後で気づいたが、御堂は莉子の問いにほんの少し寂しそうに答えた。
 
 
「そりゃあ……迷わず大好きな人と結ばれることを選んだわ」
 
 
 
 視線を落とした先に、ショーケースに並んだこのお店のお菓子が微笑んでいる。御堂の歯切れのいい台詞には、莉子も些か驚いた。
 
「え……なんか、意外ですね」
 
「そうかしら。女の子なら、誰もがふとした頃に夢見ることでしょう。その中で運命の相手と結ばれることは、この世界では奇跡なんだから。今の彼との出逢いもね」
 

 あどけないウインクを莉子に寄越して、そんな御堂の姿はずっと女の子らしく莉子の目には見えている。恋愛よりも、仕事一筋の人だと思っていた。運命や奇跡を信じるなんて、『Anna』の店長は誰よりも純粋な女の子だ。
 そしてそんな御堂にまた彼のことをからかわれてしまい、ほんのり頬が赤くなる。

 
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