あなたがすきなアップルパイ
仕事帰りにいつもお店に寄ってくれた二人の甘酸っぱい時間が、どこか懐かしく思う。
一日の終わりに彼の顔を見るだけで、疲れも元気に変わった。気になる人が来てくれるのが嬉しくて、気になる人の顔を見られただけで満足だった。彼と恋人同士の生活を送る日が来るなんて、あの頃はまだ夢物語だった。
甘い物が大好きな少し変わり者の莉子の王子様。それでも家で莉子に見せる顔がどうしようもなく可愛くて、もっと彼のことが大好きになった。
いつも莉子の隣で、クールな彼が頬を緩ませて食べていた売れ残りのアップルパイ。
どんなにフルーツで着飾った高いお菓子より、素朴な味の焼き菓子が、彼の一番のお気に入り。
彼の隣で、ずっとその笑顔を見られるだけでよかったんだ。
疲れた日の夜に、他愛ない話をして、その笑顔に包まれるだけで小さな幸せを噛み締められた。
あの頃はまだ、彼との未来なんてぼんやりとした霧の中だった。
「莉子」
霧が晴れていく。
「ただいま」
久しぶりに聞く誰かの声。
寂しさの隙間を埋めてくれる人の優しい声がする。
「新さん……」
透明のレンズ越しに彼の切れ長の目が、莉子を見つめていた。思わずその身体を抱き締めたくなった。彼のぬくもりを、この手で。
しかし、莉子の伸ばした手は彼に触れようとしたところで思いとどまった。