あなたがすきなアップルパイ
莉子の手は彼に触れようとしたすんでのところで、彼の手に遮られた。無意識に彼へと伸びた手は、その人の手に包み込まれ、押すことも引くこともままならず彼のペースに流される。
しばらく空いた時間は、お互いのぬくもりに触れられない寂しさを煩わせた。莉子も彼の長期出張中にプロポーズのことを考える片隅で、同じだった。
お互い嫌いになったわけじゃない。
けれど、大好きな恋人同士でも気持ちはすれ違う。
硝子に触れるように重ねられた唇、繋がれた手、莉子には贅沢すぎる白馬のお迎え。
「疲れてたのかい?」
「少しだけ。春に出す新作の案が煮詰まって」
「そうか」
すぐ近くにある王子様の存在が、当たり前ではなくて、だからこそ手を離したくなくて、縋りたくなる。それがお姫様になれる唯一の条件。子供の頃の憧れを叶えることができる小指に繋がれた赤い糸。
子どもの頃の憧れを叶えられるなら、莉子も心のどこかでそう思っていた。
「新さん、あのね」
「見たよ。箱の中身」
テーブルに置いていた白い箱はいつしか開けられていた。その中身を見たと言う彼からふと視線を外して、莉子は続けた。
「うん。新さんに、話しておきたくて。プロポーズの話は本当に嬉しかったよ。子供の頃から誰かのお姫様になることが夢だったから、新さんのお姫様になれることがとても嬉しかった」
それが最大級の女の子の幸せだと、信じて疑わなかった。結婚して仕事を辞めていく友人達の笑顔は、莉子にはいつも眩しくて。いつか自分もそうなりたいと願った。
それを目の前にして、莉子にはこれまで見たことがなかった景色が広がった。でもそれはすべてが輝いて見えるというわけではなかった。
「でも、ごめんなさい。一緒には行けない。今は他にもやりたいことを見つけたの。みんなが憧れるお姫様にももちろん憧れたけど、私にしかできないことがあるなら、それをやり遂げたい。そう気づいたの」
これまで積み上げたものを簡単に投げ捨てるほど、この何年も単純にお菓子と向き合ってきたのではなかった。この手で作るお菓子で誰かを幸せにできるなら、もう少しがんばろうと思う。お姫様の道のりから遠のいてしまっても。