あなたがすきなアップルパイ
店の前に掲げられたCLOSEの看板。
街の街灯の煌めき、人々の喧騒もこの日の夜の冷気にすっかり冷め、純白の結晶が舞い降り、静かな星の瞬きが真冬の夜空を彩る。
今晩は、クリスマスの夜。聖夜とも呼ばれる、一夜の無礼講。
慌ただしかった一日は、ようやく役目を終えようとしている。
ひっそりと店を閉めた『Anna』の店内に、ひとつだけ売れ残ったアップルパイの一切れを眺めていた御堂は、この日お店の営業に尽力してくれた一人の女の子のことを思い浮かべる。
裏の厨房から僅かに漏れる明かりを頼りに、御堂の寂しげな輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。
「また一人の女の子が旅立っていくのね。このお店から……」
深夜の冷気が漂う店内に響き渡る独り言を吐いて、口角を緩めた。誰に語りかけるでもなく、ここには『Anna』の店長の御堂しか残っていない。
しかし、彼はまるでそこにいる親しい誰かに語りかけるように、自身の内側にある思いの丈を語った。女性らしく伸ばしたロングヘアーを左肩に流し、ワンレンの前髪をかきあげる。
「寂しい? でも、素敵なことじゃない。あの娘達には、これからの物語があるんだから。お伽噺のようにはいかないかもしれないけれど、あの娘達ならきっと乗り越える」
白い肌にはほんのりと、旅立つ少女達への期待が表れる。
ふと視界に入る売れ残ったアップルパイを見下ろす目は、彼の前からいなくなった人の面影を探し続けている。
彼女がいなくなってから、何回目の夜になるだろう。
「それでも、あなたがここで凍えているなら、私が傍にいてあげる。いつか、ヨボヨボのおじいちゃんになってこの手でお菓子を作れなくなる日が来ても、あなたのことを忘れない」
この世界にあなたという人はもういないけど、あなたが残してくれたここを、御堂はこれからも支え続ける。何度も寂しい夜を繰り返しても――。
フォークに刺したアップルパイを一口頬張る。ほんのりと優しい林檎の味がする。
あの娘がここで作った最後のアップルパイ。それは昔食べた味によく似ていた。葛藤しながら自分の夢と向き合う姿が、ついちょっかいをかけたくなる。
寂しさの癒えない御堂の心に、ほんの少し元気をわけてくれた。この味なら、羽ばたいてもきっと大丈夫。
支度を済ませると、御堂は『Anna』の扉をそっと閉じた。また明日も、この店の新しい扉を開くために。そして次の新しいページを紡ぐために。