あなたがすきなアップルパイ
epilogue.Applece
フランクフルト中心部から少しはずれに、小さなお店を構える洋菓子店。
三年前にお店を開いて以来、地元市民から親しまれる味として評判高い。
「あの菓子屋のアップルパイがね、とても評判らしいわよ」
「何でも、日本人の奥さんが切り盛りしてらっしゃるそうよ」
「今度のお茶会に持っていこうかしらねえ」
フランクフルトの貴婦人達の間でも度々話題に挙がり、お茶会にも御用達の絶品のお菓子が揃えられている。ここ最近では、郊外から買いに来る客足も伸びている。
そんな巷で評判の洋菓子店は、フランクフルトの片隅でひっそりと店を構え、臙脂色のレンガの家の中には、モダンな店内を彩るお菓子の香りが漂っている。
三年前にこのお店を開いた莉子も、今年で32歳になる。
五年前に彼とともにドイツに移り住んで、フランクフルトに自分のお店を開くことは、思っていたよりもずっと大変なことだった。
自分が悩んで選んだ道を信じて、三年前にこのお店を開いてから今日まで七転八倒を繰り返しながらやって来きた。
この日は、年に一度のクリスマスの夜が訪れる。
日本では恋人達のイベントだが、ここでは家族と過ごすための夜である。
「ママッ!」
お昼を過ぎた頃に、お店の扉が勢いよく開くと、7歳になったばかりの娘の杏莉が抱きついてきた。その後から4歳になる息子の慶太を抱っこした新谷が顔を出した。
朝から走り回った莉子も、愛する人達を前にすると緊張がほぐれた。甘えたがりな娘に抱っこをしてやると、扉口で待つ彼らのもとに駆け寄る。
五年前に一緒にドイツに来た新谷も、36歳になる。滅多にお店に顔を出さないが、年を重ねても相変わらずカッコいいのがマダムの間でも評判である。彼の方も仕事は順調で、莉子の代わりに子供達の面倒を見てくれることが多い。
「お店は大丈夫か?」
「あなたこそ、会社の方は大丈夫なの?」
「こんな日くらい早く帰ってお店を手伝って来いってさ」
「ありがとう」
半日の疲れも癒える笑顔を莉子は彼に浮かべた。
一人でひた向きにがんばる彼女の姿に、新谷はふとこんなことを思う。二人で歩んでいくことを誓った昔のことを……。
「お店が、順調でよかったよ。五年前に日本を離れる時は、半分君の夢を奪うような形だったから……」
「ううん。いいのよ。新しい夢を見つけられたから。大好きな人の隣にいること、誰かの幸せをこの手で願うこと、すべてを叶えるためには、この方法が一番だったんだなって」
後悔はしていない。
あの日、御堂に春の新作の企画を降りることを告白したが、彼も莉子の希望を聞き入れ、そっと背中を押してくれた。だから、きっと後悔はしない。
今晩は、大好きな人達と過ごす聖なる夜。
あれから長い時間をともに過ごして、莉子は少しでも彼のお姫様に近づけただろうか?
「享さん。帰ったら焼きたてのアップルパイを作ってあげるからね」
フランクフルトに小さなお店を構える洋菓子店『Applece』
今日もこの小さなお店で、莉子はたくさんの人々に小さな幸せを届ける。