あなたがすきなアップルパイ

 都内にあるオフィス街の中心部に本社を構える大手商社企業に勤める莉子の恋人である新谷享。
 29歳にして会社の中心として働き、様々な企画で実績を誇っている。
 莉子と出逢った当時は27歳だったが、その頃から同期の中で頭角を現し、若手エージェントとして最も注目株である。
 
 
 本来ならお互いに関わるはずもなかった身分の違う二人だが、莉子が勤める洋菓子店にたまたま彼が来店客として訪れ、出逢い、惹かれ合った。
 
 新谷が甘い物好きで、たまたま莉子のお店にあの日駆け込んできてから、惹かれ合うように今日まで良好な交際を続けてきた。
 
 まるでおとぎ話のように出来た物語だ。
 
 
 
 そんな莉子も『Anna』のパティシエールとして働く傍ら、同じ従業者として彼の仕事の話を耳に入れることもしばしばあるが、イマイチ彼の仕事の内容は理解していないようだ。
 海外企業との取り引きなどの小難しい話はあまり彼女の好みではないようで、春に彼女のお店で出す新作の洋菓子の試作品の話をする方が、二人にとってずっと有意義な時間だった。
 
 
 
 
 彼と同棲を始めたきっかけも、もともとは莉子が以前に住んでいたアパートの契約更新をすっかり忘れていて、行く宛のない莉子を見かねた彼が「一緒に住まないか?」と同棲を提案してくれたのだ。
 
 一年前に、この彼のマンションの部屋に莉子が転がり込んだということになる。
 

 
 都内区間にある高層マンションの1LDKの部屋に彼と二人で住むことになり、その間取りの広さと桁外れの家賃の高さに、莉子は大都会の洗礼を受けた。
 莉子と出逢う前からこの部屋に住んでいたという彼の話を聞き、震え上がると同時にその年齢にして彼の収入の安定性が垣間見えたが、莉子はあまりの金額にしばらくの間それどころではなかった。

 新谷と二人で住むからには二人で家賃を折半しようと莉子は考えていたが、しがないパティシエールの給料一月分を掻っ攫う金額に踏みとどまる。
 彼と相談して家賃は1/3でいいから、家事など家内の仕事を莉子に任せることで話がまとまった。
 新谷は莉子の収入面を気にしてマンションの家賃に気を遣わなくていいとも思ったが、莉子が一緒に住むからにはきちんと支払っておきたいという彼女の気持ちを尊重して、その条件を飲むことにした。

 
 しかし、現実は夜遅くまでお店で働く莉子の帰りが遅くなり、こうして新谷が夕食を用意して彼女の帰りを待っていることも少なくない。

 莉子は恋人に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、お店から分けてもらった彼の好物の甘い物を持ってマンションに帰ってくる。
 雀の涙程度だが、彼も甘い物を前にすると機嫌を良くしてくれる。
 
 

 
 
「今日はお店のアップルパイ二個も持って帰って来たんだよ」
 
「褒めて遣わす」
 
「普通に褒めてよー」
 
 
 いつものようにおふざけをしながら、莉子がお土産の箱をリビングのテーブルに置いて、疲れきった身体を温めてこいと新谷からシャワーを勧められる。
 莉子も彼の言葉に素直に頷きいそいそとコートを脱ぐが、せっかく彼の大好きなアップルパイを、お店から二個ももらってきた彼女の涙ぐましい努力をもう少し認めてもらいたいものだ。
 
 
 
 
「ん、ありがと。莉子」
 
「ご褒美はないの?」
 
「欲しがりだな」
 
 
 仔犬の潤んだ瞳で溺愛する恋人からそうやって見つめられれば、普段は冷静な新谷も、ついその冷静さを欠いてしまう。
 
 今ここでこの娘の唇を奪って、灯りを消した寝室のベッドに彼女の身体を押し倒して、この指で撫でる小さな口から漏れる甘い吐息に一晩中浸りたい――――――。
 
 
 
 …………なんて彼の欲深い部分が出るが、仕事から直帰した彼女の身体を労る方が大事である。お望み通りにその唇に王子様のキスを落とす。
 
 
 
 
 


 
「待ってるから、あとでアップルパイ食べような」
 
 
 
 
 
 クールで素っ気ない彼の口から時々漏れる甘い言葉は、どんなに砂糖をまぶしたお菓子より、莉子の心を甘くとろけさせる。
 

 
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