拾った彼女が叫ぶから
プロローグ
重い足音が、膝を抱えたマリアの耳をかすめた。ゆったりとした足取りだが迷いがない。多分男性の革靴の音だ。
なぜこんな時間に人が来るんだろう。ここはもう閉館した後の王立図書館で、灯りも殆ど付いていない。一体、何の用があるのだろう。
一番奥の書棚の前でうずくまったマリアは、自分のことを棚に上げて首を捻った。
──お願いだから、こっちに来ないで。早く引き返して、一人にして。
マリアは深紅のドレスをきゅっと握り締めて、息を殺す。
そう思うそばから足音は次第に大きくなり、彼女のすぐ前で止まった。
「マリアさん。ここにいましたか」
反射的に頭を上げると、自分と同じか少し歳下くらいの青年が微笑みを浮かべてマリアを見下ろしていた。薄闇では細かな造作はわからないものの、綺麗な目をしていることはかろじて見て取れる。
だけど笑顔なんて、今は一番見たくない。
「誰よあんた」
「ルーファスと申します。先ほどの夜会に僕も出席していたのですが」
名乗られても全く覚えがない。夜会の間中、頭が真っ白だったのだ。
だがあの場にいたというのなら、青年がここに来た理由は一つしか思い浮かばない。心がささくれ立った。
「なんだ、あんた私を笑いに来たの」
「まさか。何か笑うようなことでもありましたか?」
「帰ってよ。それとも改めて説明しなきゃならない? ガードナー公爵の『愛人』は、彼と王女殿下の婚約発表を聞いて初めて、彼がこれまで独身だったことを知ったのよって?」
マリアは今夜の婚約発表の場を思い返して眉を上げた。あの場にいた誰もが拍手で婚約を祝った。そして自分をちらちら見ては訳知り顔でヒソヒソと笑った。皆、彼が独身でありながら既婚者のふりをしていただけと知っていたのだ。
「それは笑うことなんですか?」
「違う? 私は騙されていた愚かな平民で、彼の口車に乗せられてまんまと『愛人』をやっていたんだもの」
あの人の手には最初から指輪があった。それでも好きになった。
「妻にはしてあげられないけど、私もきみを好ましく思っている」
と、あの人は指輪を見せながら残念がったのに。
全部演技で、全部嘘だった。
「マリアさんは愚かじゃないですよ」
ルーファスと名乗った青年が目元を緩める。すっと通った鼻筋と細く緩く弧を描く目は、明るいところで見ればきっと人目を惹きそうだ。
でも今のマリアにはきっとこの男も心で自分を笑っているのだろうとしか思えなくて、見ているだけでむかむかする。
「私はねえ、あんたみたいなやつを見てると腹が立つの。さっきからへらへらして。私、これでも伯爵家の娘だったのよ。オルディス家の美人姉妹と言えば、知らない人はいなかった。あの人だって、私のことを誉めそやしてくれたのよ。あんたなんかに慰められる必要なんてこれっぽっちもないわ」
「マリアさんはお綺麗ですよ。きっと毎日たくさん求婚の手紙をもらったんでしょうね」
「もう今は違うわ、お手入れなんてしていないもの。安いお世辞なんて要らない。……でもあの頃は毎日姉様と手紙の束を手札にして、カードゲームをしていたのよ。舞踏会では私を踊りに誘う殿方の行列が終わらなくて、ろくに休憩も取らずに相手をしてあげてたんだから。お陰でダンスもすっかり得意よ」
「僕もマリアさんと踊りたかったです。並べば良かった」
相変わらずルーファスは笑顔を絶やさない。完全に言いがかりだ、とわかっていてもマリアはますます苛立った。
「あんたなんて、私の目に留まるわけないんだから。そんな地味な格好で──何それ、もっと刺繍とか入れたらいいじゃないの。でないとシャンデリアに映えないわよ」
マリアはアメジストの瞳でルーファスをじろじろと見た。
彼はシャツの上にウエストコートを着込み、クラヴァットをした姿だ。夜会を終えたからか上着は着ておらず、ウエストコートもトラウザーズも漆黒で一片の飾りもない。飾りと言えば宝石をはめたクラヴァットピン位だ。
見るからに上質な仕立てではあるけれど、夜会で踊るには物足りない気がする。
「そうですね。今夜は招待客というわけでもなかったので控え目にしたんですが。次にマリアさんにダンスの申込みをするときにはそうします」
「次なんてないわよ!」
「どうして?」
「……もう舞踏会に招待されないもの」
煌びやかなドレスも、むせかえる香水の匂いも、何もかももう縁はない。没落後も公爵の同伴者として社交界にも出入りした日もあったけれど、それも今日で終わりだ。
ぽとりと自身の深紅のドレスを見下ろした。
本当に悲しいのは、招待されないことじゃない。華やかなドレスを着たかったのでも、踊りたかったのでもない。
恋をしていた間中、ずっと嘘をつかれていた。
「あー、私の周りはどうしてろくでもない男ばっかりなんだろ。姉様みたいに、家が潰れる前にさっさと嫁げば良かった」
「ろくでもない男って、もしかして僕も入っているんですか」
「もちろんよ。あんたなんてその代表よ、代表。馬鹿な女のことをわざわざ見にきて、へらへら笑うなんて悪趣味だわ。御満足いただけた?」
ルーファスがにへらと頬を緩めながらも、わずかに眉を下げた。
「せっかくだから、もう少し面白おかしく話してあげれば良かったわね。これなんてどう? 私ね、とっくに純潔も捧げちゃったのよ。あんな男にね。ほんっと何やってんだか……」
笑ったはずなのに、声が震えてしまった。
この国では女性の結婚にあたって、処女性が何より重んじられる。潔癖な王妃の発案でそのように法によって取り決められてしまったのだ。
そのことを頭ではわかっていたのに、……わかっていたのに捧げてしまった。
目の奥に溜め込んだものが今にも決壊しそうになるのが嫌で、マリアはぎゅっと瞬きを繰り返した。
なぜこんな時間に人が来るんだろう。ここはもう閉館した後の王立図書館で、灯りも殆ど付いていない。一体、何の用があるのだろう。
一番奥の書棚の前でうずくまったマリアは、自分のことを棚に上げて首を捻った。
──お願いだから、こっちに来ないで。早く引き返して、一人にして。
マリアは深紅のドレスをきゅっと握り締めて、息を殺す。
そう思うそばから足音は次第に大きくなり、彼女のすぐ前で止まった。
「マリアさん。ここにいましたか」
反射的に頭を上げると、自分と同じか少し歳下くらいの青年が微笑みを浮かべてマリアを見下ろしていた。薄闇では細かな造作はわからないものの、綺麗な目をしていることはかろじて見て取れる。
だけど笑顔なんて、今は一番見たくない。
「誰よあんた」
「ルーファスと申します。先ほどの夜会に僕も出席していたのですが」
名乗られても全く覚えがない。夜会の間中、頭が真っ白だったのだ。
だがあの場にいたというのなら、青年がここに来た理由は一つしか思い浮かばない。心がささくれ立った。
「なんだ、あんた私を笑いに来たの」
「まさか。何か笑うようなことでもありましたか?」
「帰ってよ。それとも改めて説明しなきゃならない? ガードナー公爵の『愛人』は、彼と王女殿下の婚約発表を聞いて初めて、彼がこれまで独身だったことを知ったのよって?」
マリアは今夜の婚約発表の場を思い返して眉を上げた。あの場にいた誰もが拍手で婚約を祝った。そして自分をちらちら見ては訳知り顔でヒソヒソと笑った。皆、彼が独身でありながら既婚者のふりをしていただけと知っていたのだ。
「それは笑うことなんですか?」
「違う? 私は騙されていた愚かな平民で、彼の口車に乗せられてまんまと『愛人』をやっていたんだもの」
あの人の手には最初から指輪があった。それでも好きになった。
「妻にはしてあげられないけど、私もきみを好ましく思っている」
と、あの人は指輪を見せながら残念がったのに。
全部演技で、全部嘘だった。
「マリアさんは愚かじゃないですよ」
ルーファスと名乗った青年が目元を緩める。すっと通った鼻筋と細く緩く弧を描く目は、明るいところで見ればきっと人目を惹きそうだ。
でも今のマリアにはきっとこの男も心で自分を笑っているのだろうとしか思えなくて、見ているだけでむかむかする。
「私はねえ、あんたみたいなやつを見てると腹が立つの。さっきからへらへらして。私、これでも伯爵家の娘だったのよ。オルディス家の美人姉妹と言えば、知らない人はいなかった。あの人だって、私のことを誉めそやしてくれたのよ。あんたなんかに慰められる必要なんてこれっぽっちもないわ」
「マリアさんはお綺麗ですよ。きっと毎日たくさん求婚の手紙をもらったんでしょうね」
「もう今は違うわ、お手入れなんてしていないもの。安いお世辞なんて要らない。……でもあの頃は毎日姉様と手紙の束を手札にして、カードゲームをしていたのよ。舞踏会では私を踊りに誘う殿方の行列が終わらなくて、ろくに休憩も取らずに相手をしてあげてたんだから。お陰でダンスもすっかり得意よ」
「僕もマリアさんと踊りたかったです。並べば良かった」
相変わらずルーファスは笑顔を絶やさない。完全に言いがかりだ、とわかっていてもマリアはますます苛立った。
「あんたなんて、私の目に留まるわけないんだから。そんな地味な格好で──何それ、もっと刺繍とか入れたらいいじゃないの。でないとシャンデリアに映えないわよ」
マリアはアメジストの瞳でルーファスをじろじろと見た。
彼はシャツの上にウエストコートを着込み、クラヴァットをした姿だ。夜会を終えたからか上着は着ておらず、ウエストコートもトラウザーズも漆黒で一片の飾りもない。飾りと言えば宝石をはめたクラヴァットピン位だ。
見るからに上質な仕立てではあるけれど、夜会で踊るには物足りない気がする。
「そうですね。今夜は招待客というわけでもなかったので控え目にしたんですが。次にマリアさんにダンスの申込みをするときにはそうします」
「次なんてないわよ!」
「どうして?」
「……もう舞踏会に招待されないもの」
煌びやかなドレスも、むせかえる香水の匂いも、何もかももう縁はない。没落後も公爵の同伴者として社交界にも出入りした日もあったけれど、それも今日で終わりだ。
ぽとりと自身の深紅のドレスを見下ろした。
本当に悲しいのは、招待されないことじゃない。華やかなドレスを着たかったのでも、踊りたかったのでもない。
恋をしていた間中、ずっと嘘をつかれていた。
「あー、私の周りはどうしてろくでもない男ばっかりなんだろ。姉様みたいに、家が潰れる前にさっさと嫁げば良かった」
「ろくでもない男って、もしかして僕も入っているんですか」
「もちろんよ。あんたなんてその代表よ、代表。馬鹿な女のことをわざわざ見にきて、へらへら笑うなんて悪趣味だわ。御満足いただけた?」
ルーファスがにへらと頬を緩めながらも、わずかに眉を下げた。
「せっかくだから、もう少し面白おかしく話してあげれば良かったわね。これなんてどう? 私ね、とっくに純潔も捧げちゃったのよ。あんな男にね。ほんっと何やってんだか……」
笑ったはずなのに、声が震えてしまった。
この国では女性の結婚にあたって、処女性が何より重んじられる。潔癖な王妃の発案でそのように法によって取り決められてしまったのだ。
そのことを頭ではわかっていたのに、……わかっていたのに捧げてしまった。
目の奥に溜め込んだものが今にも決壊しそうになるのが嫌で、マリアはぎゅっと瞬きを繰り返した。
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