拾った彼女が叫ぶから
 耳元で囁かれた瞬間、心臓が突き抜けてルーファスにぶつかるんじゃないかと思った。多分いま、呼吸も止まった。

「それにマリア。その話は嘘ですよ」
「へ……?」
「僕には婚約者はいません。いたこともありませんよ」

 呆然とルーファスを覗き込むと、彼がくしゃりと笑みを一層崩した。それから愉快だとでも言うように、マリアの濡れた目元に何度も唇を落とした。





 目元が腫れてひりひりする。マリアは決まり悪い思いでルーファスをサロンに通し、お茶を淹れた。
 さっきの話を母親に聞かれていたらどうしよう。いや、母親だけではない。今更ながら消え入りたくなる。穴があったら入りたいし、なければ掘って入りたい。とはいえ、もうやってしまったことだから仕方ない。

「あの、ごめんなさい、母は出迎えに出られないのだけど……」
「先触れもなしで来たんだから構わないでください。それより母君は?」
「ああ、ちょっと伏せっているの。でももう殆ど回復しているのよ」

 マリアは母が風邪をこじらせたこと、医師に診せ、お薬ももらったから問題ないことを告げる。
 ルーファスの表情が曇り、マリアは慌てて話を逸らした。

「それより、良かったわ。もうルーファスがここに来るのもこれが最後だと思うから」
「……最後?」

 一度ソファに座ったはずのルーファスが腰を浮かせた。

「ええ、この家も年内いっぱいなの。私たちもブレア領に戻るわ。そうしたらもう──」
「マリア」
「だから今のうちにルーファスとの約束を果たさないとって思っていたのよ。あの、『とっておきの場所』にもう一度招待するって約束していたでしょう?」
「それはそうですが。だけどマリア」
「ナァーゴのことが心配だけど、あの子はきっとどこかの家の飼い猫だと思うから、ブレアに連れて行くわけにもいかないしね」
「待ってください、マリア。なぜここを離れることに?」

 ルーファスがにこやかな顔のまま、でもほんの少しだけ鋭さを声に乗せた。

「やだ、こんなお屋敷、私たちにはもう必要のないものなのよ。いつかは出て行かなくちゃね。むしろもう五年近く、住み続けていたのがおかしかったのよ」
「理由になっていませんよ。なぜ出て行くのですか?」
「その笑顔が怖いったら。……ここは抵当に入っているのよ」

 オルディス家の家財一切を手放しても、両親の抱えた負債はそれらをしのぐものだった。
 ブレア領は元々、ラズベリーやブルーベリー、クロスグリといったベリー類の栽培で有名な土地だ。だが、五年前の異常気象により、収穫は激減した。
 マリアの父は困窮する領民を守るために、税金を免除した。不作となったベリーを高額で買い上げ、私財を投じて彼らの生活費の補填を行った。
 悪いことは重なった。買い上げたベリーを売った商人に商品に傷があると難癖をつけられ、返金を求められたのだ。騙されたのだと気付いたときにはもうその商人は逃亡した後だった。そして国への税を納められずに、爵位は取り上げられた。
 その結果、負債だけが残ったのである。
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