拾った彼女が叫ぶから
馬を走らせてから四日になる。初日は酷く酔ってしまい、気持ち悪さのあまり何度か休憩を入れてもらった。街道の脇の繁みで嘔吐を繰り返すマリアに、イアンはだいぶ焦ったらしい。「俺、マリアちゃんならいけると思って……ごめん!」と人に謝罪することなど滅多にないだろう王族を謝らせるという偉業を達成してしまった。
一方、お尻や太ももの筋肉の痛みは、日が経つにつれて酷くなる。鞍があっても、馬に乗るのは初めてなのだから仕方がないとはいえ、早く解放されたいと心から思う。イアンはというとこれくらいの旅は何でもないらしく、マリアとの歴然たる基礎体力の差には感服するしかない。
夜は宿を取り、充分な休息を得たことと慣れもあったのだろう。翌日からは酔いだけでも症状が軽くなったのが幸いだ。そうでなかったら、とっくにギブアップしていたかもしれない。ルーファスに会いたいという願い──執念という方が近いかもしれない──のお陰で何とか耐えていられる。
トゥーリスとの国境はもう目前だ。この日もこれまでと同様、宿で朝食をとってからすぐに出発した。ちょうど国境沿いに連なる山を越えなければならないのだ。日が暮れるまでに一気にトゥーリスへ入りたい、と細く伸びる山道をひたすら進む。
「マリアちゃん、ちょっとスピードを上げてもいい?」
「あ……はい、何とかなると思います。すみません、休憩を沢山取ってもらって」
「いやいや、俺も休憩したいのは一緒だから。俺ねえ、不真面目なの。それよりさ」
珍しくイアンが言いよどんだ。マリアの後ろに座るイアンの表情は見えない。マリアはその先が気になって馬上で振り返った。
イアンがちらちらと周辺を窺っている。何かを警戒するような鋭い目付きだが、マリアと目が合うとにっと笑った。案外、大した内容ではないのかもしれない。
マリアが再び前を向くと──何せ揺れが激しいので、慣れない彼女が喋ると舌を噛みそうなのである。無駄口はあまり叩きたくない──彼の護衛と思われる騎士の一人が馬首を並べた。頭の上でぼそぼそと短い会話が飛び交う。「何者だ、昨日と同じか?」「狙いはどちらだ」「今度こそ逃がすな。必ず捕えろ」と何やら物騒だ。
今度はたまらず口を開いた。
「何かあったのですか?」
「いやー、俺、モテるからさあ。あっちでもこっちでも大歓迎を受けるわけよ」
イアンががははと笑うが、その目が泳いでいるのは一目瞭然だ。とはいえ、王子を相手に問いつめることもできず、マリアは眉をしかめるに留めた。この角度ならイアンからは見えないだろう。
「歓迎されているようには見えませんが」
「大丈夫、マリアちゃんには傷一つ付けさせねーから! 護衛も普段の倍以上は付いてるから。まあ、付けすぎじゃねーかと思ったけど役に立つもんだな」
イアンが彼女を安心させようと肩を叩く。身体が知らないうちに強張っていたらしい。だがイアンを見上げれば、やっぱりそこにはどこかやんちゃな少年みたいな瞳しか見られない。ここでマリアが騒ぎ立てる方が迷惑だろう。マリアは曖昧に微笑んだ。
護衛が多いと言われても、普通はどれほどの人数が付くものなのか知らないので何とも言いようがない。目の付くところにいるのはほんの二、三人なのだ。もしかして自分が気づいていないだけで、どこかに潜んでいるのだろうか。何せ、この旅が決まったのも急であったし、王子が予定外に王宮を出ているという情報が漏れないように、ひっそりと移動しているのである。
──それでもイアン殿下が狙われているなんて……。ルーファスは無事に目的地に着いていると良いのだけど。
イアンがスピードを上げる。彼自身はその物騒な相手を振り切るつもりのようだ。マリアがいては足手まといだからだろう。
不意にざわりと空気が動いた。
それまで全く感じなかった人の気配を感じる。それも十数人はいるのではないだろうか。イアンにぴたりと貼りつく彼の護衛とは別だと思う。その気配は殺気をまとったかと思うと、瞬く間に移動した。
マリアは慌てて首をめぐらせてみたが、すでに見える範囲には誰もいない。
後方で、鋭い金属音に交じって怒鳴り声や罵(ののし)る声が上がる。だがマリアが振り向く間もなく、イアンの馬は疾風のように駆け抜けた。
一方、お尻や太ももの筋肉の痛みは、日が経つにつれて酷くなる。鞍があっても、馬に乗るのは初めてなのだから仕方がないとはいえ、早く解放されたいと心から思う。イアンはというとこれくらいの旅は何でもないらしく、マリアとの歴然たる基礎体力の差には感服するしかない。
夜は宿を取り、充分な休息を得たことと慣れもあったのだろう。翌日からは酔いだけでも症状が軽くなったのが幸いだ。そうでなかったら、とっくにギブアップしていたかもしれない。ルーファスに会いたいという願い──執念という方が近いかもしれない──のお陰で何とか耐えていられる。
トゥーリスとの国境はもう目前だ。この日もこれまでと同様、宿で朝食をとってからすぐに出発した。ちょうど国境沿いに連なる山を越えなければならないのだ。日が暮れるまでに一気にトゥーリスへ入りたい、と細く伸びる山道をひたすら進む。
「マリアちゃん、ちょっとスピードを上げてもいい?」
「あ……はい、何とかなると思います。すみません、休憩を沢山取ってもらって」
「いやいや、俺も休憩したいのは一緒だから。俺ねえ、不真面目なの。それよりさ」
珍しくイアンが言いよどんだ。マリアの後ろに座るイアンの表情は見えない。マリアはその先が気になって馬上で振り返った。
イアンがちらちらと周辺を窺っている。何かを警戒するような鋭い目付きだが、マリアと目が合うとにっと笑った。案外、大した内容ではないのかもしれない。
マリアが再び前を向くと──何せ揺れが激しいので、慣れない彼女が喋ると舌を噛みそうなのである。無駄口はあまり叩きたくない──彼の護衛と思われる騎士の一人が馬首を並べた。頭の上でぼそぼそと短い会話が飛び交う。「何者だ、昨日と同じか?」「狙いはどちらだ」「今度こそ逃がすな。必ず捕えろ」と何やら物騒だ。
今度はたまらず口を開いた。
「何かあったのですか?」
「いやー、俺、モテるからさあ。あっちでもこっちでも大歓迎を受けるわけよ」
イアンががははと笑うが、その目が泳いでいるのは一目瞭然だ。とはいえ、王子を相手に問いつめることもできず、マリアは眉をしかめるに留めた。この角度ならイアンからは見えないだろう。
「歓迎されているようには見えませんが」
「大丈夫、マリアちゃんには傷一つ付けさせねーから! 護衛も普段の倍以上は付いてるから。まあ、付けすぎじゃねーかと思ったけど役に立つもんだな」
イアンが彼女を安心させようと肩を叩く。身体が知らないうちに強張っていたらしい。だがイアンを見上げれば、やっぱりそこにはどこかやんちゃな少年みたいな瞳しか見られない。ここでマリアが騒ぎ立てる方が迷惑だろう。マリアは曖昧に微笑んだ。
護衛が多いと言われても、普通はどれほどの人数が付くものなのか知らないので何とも言いようがない。目の付くところにいるのはほんの二、三人なのだ。もしかして自分が気づいていないだけで、どこかに潜んでいるのだろうか。何せ、この旅が決まったのも急であったし、王子が予定外に王宮を出ているという情報が漏れないように、ひっそりと移動しているのである。
──それでもイアン殿下が狙われているなんて……。ルーファスは無事に目的地に着いていると良いのだけど。
イアンがスピードを上げる。彼自身はその物騒な相手を振り切るつもりのようだ。マリアがいては足手まといだからだろう。
不意にざわりと空気が動いた。
それまで全く感じなかった人の気配を感じる。それも十数人はいるのではないだろうか。イアンにぴたりと貼りつく彼の護衛とは別だと思う。その気配は殺気をまとったかと思うと、瞬く間に移動した。
マリアは慌てて首をめぐらせてみたが、すでに見える範囲には誰もいない。
後方で、鋭い金属音に交じって怒鳴り声や罵(ののし)る声が上がる。だがマリアが振り向く間もなく、イアンの馬は疾風のように駆け抜けた。