狐の声がきこえる
序章
幼い頃、狐の嫁入りを見たことがある。
おぼろげな記憶の中、苗が儚げな田んぼの上に広がる空は晴れていた。
なのに、薄絹のような雨が降っていた。
そのせいかあたりの景色は白くけぶって、足元から伸びた農道は田んぼとともにぼんやりとして、まるで見知らぬどこかへ誘うようだった。
皐月は両親に連れられて、北関東の山間にある祖母の家に東京から遊びにきていた。
急峻な山々を縫い、長いトンネルを抜けた先に広がる、わずかばかりのすり鉢状の盆地にその町はあった。
町というより村、肩を寄せ合うようにして人家がぽつぽつと建つ山の斜面を利用した集落だ。
傾斜の強い斜面には石垣で土止めをした棚田が段になり、やがてゆるやかに平地の田んぼへと続く風景が広がり、この土地が農業で暮らしをたててきたことを物語る。
その中で斜面を切り開いた平地に、家と呼ぶには大きすぎる木造瓦葺きの日本家屋に祖父母は住んでいた。
近隣でも昔から知られる豪農で、周辺にある民家よりは明らかに存在感を放っていた。
威丈高にそびえる木造の長屋門はその集落を象徴するようにどっしりと根を下ろし、事実、近隣では祖父母の屋敷はある種のランドマークでもあり、同時に実質的なシンボルでもあった。
その長屋門をくぐれば、屋敷の表玄関まで舗装された道がゆるやかなカーブを描いて上り坂になって続いた。
道の脇にはいかにも田舎らしく、トラクターや耕運機など農業機械が幅をとる納屋などの建物が並んだ。
その素朴で無骨な光景とは真逆に、反対側には梅や桜や柿、南天や萩などの草木が植えられ、さらに細い道をいって竹の小さな庭門を抜ければ、後ろの山を利用して庭師につくらせた竹林の豊かな枯山水風の庭が広がっていた。
平屋の屋敷に入れば、家をぐるりと囲むように延々と表廊下が続き、それに沿うようにしてたくさんの畳敷きの部屋が欄間と唐紙の襖で仕切られてあった。
昔は和室だけだった屋敷も、今ではいくつかの座敷が洋風の部屋にしつらえ替えられ、びろうどの赤く重々しい絨毯が敷かれていた。
皐月は、まだ四歳だった。
その日、両親は祖父母の手伝いで、軽トラックで5分ほど走った先の田んぼに出かけていた。
農業を生業としてきた祖父母は集落内だけでなくさまざまな土地に田んぼを所有しており、5月の連休は親戚も総出であちこちの田植えの手伝いをしていた。
今でこそ耕運機や田植機があるからいいものの、昔はすべてを賄えるほどに機械もなく、臨時のパートを雇って田植えしていたため、その時期の祖父母の屋敷は、さまざまな人が賑やかに出入りしていた。
いつもなら軽トラックの後ろに乗って田んぼまで連れていってもらうのに、皐月は運悪く熱を出して、滔々と青い水を湛えた池のある庭に面した座敷に一人寝かせられていた。
普段使っているものとは違う肌触りの布団のせいか、落ち着かなかった。
今思えば、高熱であらぬ現実にうなされていたのだろう。
横になっている自分の座敷の周りを、得体の知れないものが徘徊しているような気が絶えずして、目を開ければ、正方形に区切られた格子の天井が歪んだり迫ってきたり、生きもののように見えた。
声を出せばその気配に見つかってしまいそうで、障子を通した柔らかい陽の光の中でも薄い肌がけの中に潜り込んでしがみついていた。
忙しい田植えの時期、しんと静まり返った母屋には誰も残っていなかったと思う。
普段ならいるはずのお手伝いさんもいなかったのだから、まさに総出で田植をしていたのだろう。
野鳥さえ声を潜めていたのか、どこかから聞こえてくる家鳴りの音や風の音ばかりがした。
体が自分のものではないような浮遊感のまま起きてしまったのは、耐えきれない喉の渇きもあったからだ。
廊下に出ると、やけに玄関が遠くに見えた。
そのそばに、いつもは誰かが出入りして煮炊きやつまみ食いをしている、この屋敷の台所となる土間があった。
そこに降りれば水もあるのに、行けども行けどもたどり着けないような長い廊下のせいで、いつもより時間がかかった。
そろりそろりと飴色の丸みを帯びた柱で体を支えるようにして端を歩いているのに、時折、板張りの床がきしむ低い音が心臓をつきさすように響いた。
心細さと怖さに追われるようにしてようやくたどり着いた土間は、ひんやりと、どこか薄暗い空気をわだかまらせていた。
普段の人の気配が消えただけで、こうも屋敷は異質なものに様変わりするのか、幼い皐月が降りるのをためらわせるには充分な昏さだった。
結局、喉の渇きよりも恐怖に負けて、土間に降りず、玄関に向きを変えた。
ただ一途に母の姿を求めて、外にふらりと出た。
空は青く、時おり、一点のシミのようにツバメが低く飛んで納屋の中に吸い込まれるように消えては、またこつ然と現れるように出てきて、さっと青空へと飛び立った。
空気に甘く湿った匂いが混じっていた。
敷地のどこにも人気はなく、皐月はたった一人で、小高い位置の屋敷から下った、塗りがはげた長屋門の脇にある潜戸から外をのぞいた。
目の前には、清々しいほどに青い田んぼが広がっていた。
ほとんどの田んぼに水が張られ、植えられたばかりの弱々しい苗が柔らかく雨に打たれていた。
雨粒をしなやかに弾け返す苗の姿は、幼い皐月の目には、今いる世界がただ自分と目の前の風景だけのように思え、人間の子ども一人などたやすくのみこまれてしまいそうな感覚に陥った。
その時になってようやく、ひっそりと雨が降っていることに気づいたのだった。
光を閉じ込めたまま空から無数に落ちる粒は、舗装されたアスファルトを濃く塗り替え、周りの音はそれに吸い込まれて、虫も鳥も生きとし生けるものはすべて、その一糸乱れぬ営みを妨げないように息を潜めている。
聞こえるのはただ、雨が長屋門のどこかから滴り落ちる音と、目の前の世界を埋めるようにさあさあと降る音のみーー。
空気を濡らす、甘い匂いが濃くなった。
気づけば、細く抑揚のある、甲高い笛の音が流れてきていた。
祭りで聴く、泣いているかのように哀切のある篠笛の高い音だった。
その笛の音に惹かれて視線を巡らせた先、田んぼと田んぼの間を縫うあぜ道。
そこを、皐月の視界を横切るようにひっそりと動いていく列があった。
雨にぼうっと霞む黒い人影の列は、白くけぶる靄の中で始まりも終わりも見えない異様な長さだった。
笛の音だけをお供にした、浮世離れしたその雰囲気は、不安ではちきれんばかりの小さな胸の中を怯えと好奇心に粟立たせた。
きっと、その列が普通じゃないと、子どもの直感で知っていたのだろう。
皐月は潜戸の影に少し身を隠した。
輪郭が曖昧で揺らめくような列は、しずしずと山の麓の林へと向かっていた。
息を殺してただ列を凝視していた皐月には、静かに雨が弱まり、視界が少しずつ晴れ始めていたことに気づく余裕はなかった。
ふいに、それを見ていた皐月の視線の先で列が止まった。
その瞬間、背筋に走ったのは、体の芯を氷よりも冷たい刃で撫でられたような恐怖だった。心臓が鼓動を刻む音が大きくなった。
列の人影が皆、自分の方に顔を向けている。
皐月を、見ている。
本来なら遠く列をつくる人たちの様子など、ましてや顔の動きなど分かるはずもない。
声にならない悲鳴が小さな体の中でぶわっと膨らんだ。
本当に怖い時は、声なんて出ない。息さえつげない。
いつのまにか空を雲が覆い、わずかな隙間から陽の光が差して列をまだらに染めた。
照らされた彼らの顔がひどくくっきりと見えた。
誰もが一様に狐の顔をしていた。
いや人が狐の面をつけていた、のかもしれない。
今となっては、どちらだったのかはうろ覚えだ。
ただ皐月は、金縛りにあったように身動きもできなければ目を背けることもできなかった。
それはわずか数秒のことだったかもしれないし、数分のことだったかもしれない。
まるで狐の顔をした彼らと皐月とが時間も距離も飛び越えて、永遠に対峙し続けるように感じられた。
鮮やかなはずの、苗も空も田んぼの向こうにそびえる山々も、すべてがその色を失った。
ただ空気に残る雨の匂いがむせるほどにどんどん濃くなってきて、体に張られたあらゆる末端の神経が熱を持ち、頭の芯がぼうっとした。
おいで、と囁く声を聴いた。そんな気がした。
呼吸の仕方さえ忘れて、倒れる寸前だった。
ふいに視界が揺らいだように見えて、いや、列の一部がゆらりと動いた。
列が緩慢に動き出し、降らせた雨を果てに追いやるかのように空はいつのまにか膜を貼ったような雲を流し始めていた。
止まっていた時間が早送りされるかのように、皐月を取り囲む世界は急速にいつもの状態を取り戻しつつあった。
強く戸を掴んでいた小指の先がかすかに震え、乾ききった喉の奥がつかえた何かを飲み下すように無意識に動いた。
それを合図にしたように、それまで動かすことのできなかった体が急に楽になって、皐月は大きく息をすると同時に糸が切れたようにその場に座りこんだ。
泣き声が喉の奥からせりあがってきた時には、異様に長い列はすでに林の奥に消えていた。
雨が降ったことが嘘だったように空は晴れ、風が空気を一新して、ただ田んぼの水やあぜ道の水たまりは、流れる雲をうつしてきらきらと輝いていた。
その後のことはほとんど覚えていない。
母親が心配で様子を見に帰ってくるまで、ただ長屋門のそばでしゃがみこんで泣いていた。どうしたのかと聞かれても抱っこされても、頑なに口を閉ざしたままだったという。
おぼろげな記憶の中、苗が儚げな田んぼの上に広がる空は晴れていた。
なのに、薄絹のような雨が降っていた。
そのせいかあたりの景色は白くけぶって、足元から伸びた農道は田んぼとともにぼんやりとして、まるで見知らぬどこかへ誘うようだった。
皐月は両親に連れられて、北関東の山間にある祖母の家に東京から遊びにきていた。
急峻な山々を縫い、長いトンネルを抜けた先に広がる、わずかばかりのすり鉢状の盆地にその町はあった。
町というより村、肩を寄せ合うようにして人家がぽつぽつと建つ山の斜面を利用した集落だ。
傾斜の強い斜面には石垣で土止めをした棚田が段になり、やがてゆるやかに平地の田んぼへと続く風景が広がり、この土地が農業で暮らしをたててきたことを物語る。
その中で斜面を切り開いた平地に、家と呼ぶには大きすぎる木造瓦葺きの日本家屋に祖父母は住んでいた。
近隣でも昔から知られる豪農で、周辺にある民家よりは明らかに存在感を放っていた。
威丈高にそびえる木造の長屋門はその集落を象徴するようにどっしりと根を下ろし、事実、近隣では祖父母の屋敷はある種のランドマークでもあり、同時に実質的なシンボルでもあった。
その長屋門をくぐれば、屋敷の表玄関まで舗装された道がゆるやかなカーブを描いて上り坂になって続いた。
道の脇にはいかにも田舎らしく、トラクターや耕運機など農業機械が幅をとる納屋などの建物が並んだ。
その素朴で無骨な光景とは真逆に、反対側には梅や桜や柿、南天や萩などの草木が植えられ、さらに細い道をいって竹の小さな庭門を抜ければ、後ろの山を利用して庭師につくらせた竹林の豊かな枯山水風の庭が広がっていた。
平屋の屋敷に入れば、家をぐるりと囲むように延々と表廊下が続き、それに沿うようにしてたくさんの畳敷きの部屋が欄間と唐紙の襖で仕切られてあった。
昔は和室だけだった屋敷も、今ではいくつかの座敷が洋風の部屋にしつらえ替えられ、びろうどの赤く重々しい絨毯が敷かれていた。
皐月は、まだ四歳だった。
その日、両親は祖父母の手伝いで、軽トラックで5分ほど走った先の田んぼに出かけていた。
農業を生業としてきた祖父母は集落内だけでなくさまざまな土地に田んぼを所有しており、5月の連休は親戚も総出であちこちの田植えの手伝いをしていた。
今でこそ耕運機や田植機があるからいいものの、昔はすべてを賄えるほどに機械もなく、臨時のパートを雇って田植えしていたため、その時期の祖父母の屋敷は、さまざまな人が賑やかに出入りしていた。
いつもなら軽トラックの後ろに乗って田んぼまで連れていってもらうのに、皐月は運悪く熱を出して、滔々と青い水を湛えた池のある庭に面した座敷に一人寝かせられていた。
普段使っているものとは違う肌触りの布団のせいか、落ち着かなかった。
今思えば、高熱であらぬ現実にうなされていたのだろう。
横になっている自分の座敷の周りを、得体の知れないものが徘徊しているような気が絶えずして、目を開ければ、正方形に区切られた格子の天井が歪んだり迫ってきたり、生きもののように見えた。
声を出せばその気配に見つかってしまいそうで、障子を通した柔らかい陽の光の中でも薄い肌がけの中に潜り込んでしがみついていた。
忙しい田植えの時期、しんと静まり返った母屋には誰も残っていなかったと思う。
普段ならいるはずのお手伝いさんもいなかったのだから、まさに総出で田植をしていたのだろう。
野鳥さえ声を潜めていたのか、どこかから聞こえてくる家鳴りの音や風の音ばかりがした。
体が自分のものではないような浮遊感のまま起きてしまったのは、耐えきれない喉の渇きもあったからだ。
廊下に出ると、やけに玄関が遠くに見えた。
そのそばに、いつもは誰かが出入りして煮炊きやつまみ食いをしている、この屋敷の台所となる土間があった。
そこに降りれば水もあるのに、行けども行けどもたどり着けないような長い廊下のせいで、いつもより時間がかかった。
そろりそろりと飴色の丸みを帯びた柱で体を支えるようにして端を歩いているのに、時折、板張りの床がきしむ低い音が心臓をつきさすように響いた。
心細さと怖さに追われるようにしてようやくたどり着いた土間は、ひんやりと、どこか薄暗い空気をわだかまらせていた。
普段の人の気配が消えただけで、こうも屋敷は異質なものに様変わりするのか、幼い皐月が降りるのをためらわせるには充分な昏さだった。
結局、喉の渇きよりも恐怖に負けて、土間に降りず、玄関に向きを変えた。
ただ一途に母の姿を求めて、外にふらりと出た。
空は青く、時おり、一点のシミのようにツバメが低く飛んで納屋の中に吸い込まれるように消えては、またこつ然と現れるように出てきて、さっと青空へと飛び立った。
空気に甘く湿った匂いが混じっていた。
敷地のどこにも人気はなく、皐月はたった一人で、小高い位置の屋敷から下った、塗りがはげた長屋門の脇にある潜戸から外をのぞいた。
目の前には、清々しいほどに青い田んぼが広がっていた。
ほとんどの田んぼに水が張られ、植えられたばかりの弱々しい苗が柔らかく雨に打たれていた。
雨粒をしなやかに弾け返す苗の姿は、幼い皐月の目には、今いる世界がただ自分と目の前の風景だけのように思え、人間の子ども一人などたやすくのみこまれてしまいそうな感覚に陥った。
その時になってようやく、ひっそりと雨が降っていることに気づいたのだった。
光を閉じ込めたまま空から無数に落ちる粒は、舗装されたアスファルトを濃く塗り替え、周りの音はそれに吸い込まれて、虫も鳥も生きとし生けるものはすべて、その一糸乱れぬ営みを妨げないように息を潜めている。
聞こえるのはただ、雨が長屋門のどこかから滴り落ちる音と、目の前の世界を埋めるようにさあさあと降る音のみーー。
空気を濡らす、甘い匂いが濃くなった。
気づけば、細く抑揚のある、甲高い笛の音が流れてきていた。
祭りで聴く、泣いているかのように哀切のある篠笛の高い音だった。
その笛の音に惹かれて視線を巡らせた先、田んぼと田んぼの間を縫うあぜ道。
そこを、皐月の視界を横切るようにひっそりと動いていく列があった。
雨にぼうっと霞む黒い人影の列は、白くけぶる靄の中で始まりも終わりも見えない異様な長さだった。
笛の音だけをお供にした、浮世離れしたその雰囲気は、不安ではちきれんばかりの小さな胸の中を怯えと好奇心に粟立たせた。
きっと、その列が普通じゃないと、子どもの直感で知っていたのだろう。
皐月は潜戸の影に少し身を隠した。
輪郭が曖昧で揺らめくような列は、しずしずと山の麓の林へと向かっていた。
息を殺してただ列を凝視していた皐月には、静かに雨が弱まり、視界が少しずつ晴れ始めていたことに気づく余裕はなかった。
ふいに、それを見ていた皐月の視線の先で列が止まった。
その瞬間、背筋に走ったのは、体の芯を氷よりも冷たい刃で撫でられたような恐怖だった。心臓が鼓動を刻む音が大きくなった。
列の人影が皆、自分の方に顔を向けている。
皐月を、見ている。
本来なら遠く列をつくる人たちの様子など、ましてや顔の動きなど分かるはずもない。
声にならない悲鳴が小さな体の中でぶわっと膨らんだ。
本当に怖い時は、声なんて出ない。息さえつげない。
いつのまにか空を雲が覆い、わずかな隙間から陽の光が差して列をまだらに染めた。
照らされた彼らの顔がひどくくっきりと見えた。
誰もが一様に狐の顔をしていた。
いや人が狐の面をつけていた、のかもしれない。
今となっては、どちらだったのかはうろ覚えだ。
ただ皐月は、金縛りにあったように身動きもできなければ目を背けることもできなかった。
それはわずか数秒のことだったかもしれないし、数分のことだったかもしれない。
まるで狐の顔をした彼らと皐月とが時間も距離も飛び越えて、永遠に対峙し続けるように感じられた。
鮮やかなはずの、苗も空も田んぼの向こうにそびえる山々も、すべてがその色を失った。
ただ空気に残る雨の匂いがむせるほどにどんどん濃くなってきて、体に張られたあらゆる末端の神経が熱を持ち、頭の芯がぼうっとした。
おいで、と囁く声を聴いた。そんな気がした。
呼吸の仕方さえ忘れて、倒れる寸前だった。
ふいに視界が揺らいだように見えて、いや、列の一部がゆらりと動いた。
列が緩慢に動き出し、降らせた雨を果てに追いやるかのように空はいつのまにか膜を貼ったような雲を流し始めていた。
止まっていた時間が早送りされるかのように、皐月を取り囲む世界は急速にいつもの状態を取り戻しつつあった。
強く戸を掴んでいた小指の先がかすかに震え、乾ききった喉の奥がつかえた何かを飲み下すように無意識に動いた。
それを合図にしたように、それまで動かすことのできなかった体が急に楽になって、皐月は大きく息をすると同時に糸が切れたようにその場に座りこんだ。
泣き声が喉の奥からせりあがってきた時には、異様に長い列はすでに林の奥に消えていた。
雨が降ったことが嘘だったように空は晴れ、風が空気を一新して、ただ田んぼの水やあぜ道の水たまりは、流れる雲をうつしてきらきらと輝いていた。
その後のことはほとんど覚えていない。
母親が心配で様子を見に帰ってくるまで、ただ長屋門のそばでしゃがみこんで泣いていた。どうしたのかと聞かれても抱っこされても、頑なに口を閉ざしたままだったという。
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