狐の声がきこえる
2
誰かが廊下を歩いてくる。
きしむ音はしないけれど、ぺたぺたと湿っぽい音がするから、素足だと分かった。
その足の持ち主は、きっと、この部屋の前に立って襖を開ける。そう確信をもって予想できることを疑問に思わず、その足音が予想通りに行動することをぼんやりと待った。
おおかた様子を見に来た依舞だろう。そう思っていると、やはり襖がすっと開いて、首をめぐらせた。つもりだった。
その時になって、ようやく体が動かないことに気づく。声も出ない。
皐月自身の意志ではままならない体と覚醒した意識が分断されたような感覚に陥って混乱する。眠ったはずだった。そうならば今は目覚めているのか、それとも熱による夢うつつなのか。
半分パニックになっている皐月に気づくはずもなく、頭の方から近づいてきた気配は、少し離れたところでためらったように立ち止まった。
直感的に、足の持ち主が依舞じゃないと気づく。
私の知らない誰か。
それは白彦でもなく、……おそらく人でも、ない。
できればそのまま回れ右をして、この部屋から出ていってほしかった。そう願う皐月の思いとは裏腹に、再び畳のたわむ音がした。
それが顔の横の方で止まって、思わず皐月は息を潜めた。目を動かそうと思えば動かせたかもしれない。でもその気配の正体を見るなんてことはとてもできそうになかった。むしろ目を閉じたいのに、木目の天井をまっすぐ見つめていることしか皐月にはできない。
一秒が、やけに長い。
こそり、とも音がしない。
ぎりぎりと、緊張の糸が張りつめて、体の内で不穏な塊が膨張していく。
お願い、どこかに行って。そう強く念じた時、ふっと空気が軽くなった。
その瞬間、視界の上の方に丸い子どもの膝が掠め、その持ち主が何者か気づいた。
狐面の男の子。
今、皐月の頭上のそばにいるのは、あの子に違いなかった。
「……がい」
ふと、小さな声がたどたどしく降ってきた。初めて聞くのに、なぜか少し懐かしくなって、張りつめていた気持ちが緩んだ。
「……おねがい」
何に怯えているのか、震える声が哀れで、恐怖が一気にほどけた。むしろ、どうにかしてあげたいと母性が疼く。
でも、まだ声は出ない。だから声に出さず、問いかけた。
お願いって、何?
「おもいだして」
何を?
「おもいだして」
自分が知っていること?
「おねがい。おもいだして」
何をとは言わず、ただ「おもいだして」と繰り返されて、途方に暮れる。何かを訴えているのは分かるのに、それを理解できないもどかしさが胸の奥を締めつけた。
君が何を言っているのかわからない。ごめんね。
そう何度も胸の中で謝ると、その子は小さくしゃくりあげ、すすり泣き始めた。
その泣き声は、皐月の心の奥底をひどく揺らした。遠い昔、まだ皐月が幼稚園に通っているくらいの頃に聞いた覚えがある。思い出さなくてはならない気がするけれど、そう思うことさえ、どこか遠く感じた。
かすかに頭を動かせることに気づいて、ゆっくり隣を見上げた。
張り出した丸く愛らしい膝が見えて、そして両手で狐面の顔を覆う男の子がいた。
上半分しかない狐面の下端から、小さな涙が伝い落ちている。
泣かないで。慰めたくて、手を伸ばした。
いつのまにか自由になっている体のことも忘れ、その子の手に触れたような瞬間、男の子は反射するように畳の上から飛び上がった。
その弾みで狐面が落ちた。
ほんの一瞬、捉えたのは、切れ長で金色に光る瞳だった。
「きよくん?!」
自分の叫んだ声に、ハッとして飛び起きた。心臓が早鐘を打って、現実感が皐月を覆っていた。
あの子が座っていたはずの隣を見ると、ただ陽に焼けて色あせた畳が広がるばかりだ。
夢だったのかと疑いながら、醒める前に一瞬だけ見たあの子の、狐面の下に隠れていた素顔を記憶に繋ぎとめようとした。そうしなければ、どんどん靄の中に包まれて、細部まで思い出せなくなってしまう。
幼い頃の白彦にそっくりだと感じた顔の中で一つ、はっきり印象に残っている部分があった。
目だ。人間のものではなかった。
猫のように縦長に細い瞳孔。そして、時々白彦の瞳でも錯覚のように気になった、その色。
角度によっては別の色彩も混じるかのように輝く、金。
白彦なのか、白彦の姿を借りた他の何者なのか。
それに、あの子はしきりに繰り返した。
「思い出してって、何を……?」
かすかに汗ばんだ額を抑えながら、考えを巡らせる。自分の記憶に何か関係があるのだとしか思えなかった。
その時、廊下を歩いて近づいて来る音がして顔をあげた。
「お姉ちゃん、開けるよ」
喪服のワンピースを着た依舞が入ってきた。
「起きた?」
「ん……ちょうどね」
「顔、赤いの引いてるみたい。熱、さがった?」
そう言われて、体のだるさが消え去っていることに気づいた。悪化してもおかしくないのに、熱も下がっていて、不思議なほど気分もすっきりしている。
「もうすぐ告別式はじまるから、その前に様子見にきたんだけど、具合はどう?」
「たぶん大丈夫。参列するよ」
「でも……平気?」と心配そうな依舞に笑みを返して、布団から出た。
「慣れない場だったのと、仕事の疲れが一気に出ただけだと思うから」
時刻は九時半。急いで仕度すれば十分間に合う。
「じゃあママに伝えてくる」
部屋を出ようとした依舞がふと何かを思い出したように振り返った。その目がからかい半分に笑っていて、嫌な予感がした。
「ねえお姉ちゃん、白彦さんて、お姉ちゃんのこと好きなんだね」
突拍子もない話に何を言われたのか一瞬ついていけなかった。
「ちょっとね、悟おじさんと白彦さんが話してるの聞いちゃって。なんか親子ゲンカ? してるみたいな雰囲気だったけど。でも白彦さん、お姉ちゃんのことは僕が守るって」
依舞があざといくらいの笑顔を浮かべた。
「ねね、お姉ちゃんもさ、まんざらじゃないんでしょ?」
第三者から、自分への好意を聴かせられると真実味が増すらしい。
「そっ、そんなことはいいから、お母さんに伝えてくるんでしょ、もう急いで準備しなきゃならないんだから余計なこと言ってない!」
「はあい」と、可愛く舌を出して、依舞は身を翻すとぱたぱたと廊下を走っていった。
せっかく熱が下がったのに、頬が火照って熱い。
またぶり返したらどうしてくれる。ぶちぶちと文句を言いながら、皐月は仕度を始めた。
白彦が自分に好意をもってくれていることは気づいていた。もちろん嬉しくないわけじゃない。
でもこんな時に、という気持ちと、狐面の男の子のこともある。それに白彦との思い出をさっぱりと忘れていた身で、好意を寄せられているからという単純な理由でなびけるほどの余裕が、今の皐月にはなかった。
きしむ音はしないけれど、ぺたぺたと湿っぽい音がするから、素足だと分かった。
その足の持ち主は、きっと、この部屋の前に立って襖を開ける。そう確信をもって予想できることを疑問に思わず、その足音が予想通りに行動することをぼんやりと待った。
おおかた様子を見に来た依舞だろう。そう思っていると、やはり襖がすっと開いて、首をめぐらせた。つもりだった。
その時になって、ようやく体が動かないことに気づく。声も出ない。
皐月自身の意志ではままならない体と覚醒した意識が分断されたような感覚に陥って混乱する。眠ったはずだった。そうならば今は目覚めているのか、それとも熱による夢うつつなのか。
半分パニックになっている皐月に気づくはずもなく、頭の方から近づいてきた気配は、少し離れたところでためらったように立ち止まった。
直感的に、足の持ち主が依舞じゃないと気づく。
私の知らない誰か。
それは白彦でもなく、……おそらく人でも、ない。
できればそのまま回れ右をして、この部屋から出ていってほしかった。そう願う皐月の思いとは裏腹に、再び畳のたわむ音がした。
それが顔の横の方で止まって、思わず皐月は息を潜めた。目を動かそうと思えば動かせたかもしれない。でもその気配の正体を見るなんてことはとてもできそうになかった。むしろ目を閉じたいのに、木目の天井をまっすぐ見つめていることしか皐月にはできない。
一秒が、やけに長い。
こそり、とも音がしない。
ぎりぎりと、緊張の糸が張りつめて、体の内で不穏な塊が膨張していく。
お願い、どこかに行って。そう強く念じた時、ふっと空気が軽くなった。
その瞬間、視界の上の方に丸い子どもの膝が掠め、その持ち主が何者か気づいた。
狐面の男の子。
今、皐月の頭上のそばにいるのは、あの子に違いなかった。
「……がい」
ふと、小さな声がたどたどしく降ってきた。初めて聞くのに、なぜか少し懐かしくなって、張りつめていた気持ちが緩んだ。
「……おねがい」
何に怯えているのか、震える声が哀れで、恐怖が一気にほどけた。むしろ、どうにかしてあげたいと母性が疼く。
でも、まだ声は出ない。だから声に出さず、問いかけた。
お願いって、何?
「おもいだして」
何を?
「おもいだして」
自分が知っていること?
「おねがい。おもいだして」
何をとは言わず、ただ「おもいだして」と繰り返されて、途方に暮れる。何かを訴えているのは分かるのに、それを理解できないもどかしさが胸の奥を締めつけた。
君が何を言っているのかわからない。ごめんね。
そう何度も胸の中で謝ると、その子は小さくしゃくりあげ、すすり泣き始めた。
その泣き声は、皐月の心の奥底をひどく揺らした。遠い昔、まだ皐月が幼稚園に通っているくらいの頃に聞いた覚えがある。思い出さなくてはならない気がするけれど、そう思うことさえ、どこか遠く感じた。
かすかに頭を動かせることに気づいて、ゆっくり隣を見上げた。
張り出した丸く愛らしい膝が見えて、そして両手で狐面の顔を覆う男の子がいた。
上半分しかない狐面の下端から、小さな涙が伝い落ちている。
泣かないで。慰めたくて、手を伸ばした。
いつのまにか自由になっている体のことも忘れ、その子の手に触れたような瞬間、男の子は反射するように畳の上から飛び上がった。
その弾みで狐面が落ちた。
ほんの一瞬、捉えたのは、切れ長で金色に光る瞳だった。
「きよくん?!」
自分の叫んだ声に、ハッとして飛び起きた。心臓が早鐘を打って、現実感が皐月を覆っていた。
あの子が座っていたはずの隣を見ると、ただ陽に焼けて色あせた畳が広がるばかりだ。
夢だったのかと疑いながら、醒める前に一瞬だけ見たあの子の、狐面の下に隠れていた素顔を記憶に繋ぎとめようとした。そうしなければ、どんどん靄の中に包まれて、細部まで思い出せなくなってしまう。
幼い頃の白彦にそっくりだと感じた顔の中で一つ、はっきり印象に残っている部分があった。
目だ。人間のものではなかった。
猫のように縦長に細い瞳孔。そして、時々白彦の瞳でも錯覚のように気になった、その色。
角度によっては別の色彩も混じるかのように輝く、金。
白彦なのか、白彦の姿を借りた他の何者なのか。
それに、あの子はしきりに繰り返した。
「思い出してって、何を……?」
かすかに汗ばんだ額を抑えながら、考えを巡らせる。自分の記憶に何か関係があるのだとしか思えなかった。
その時、廊下を歩いて近づいて来る音がして顔をあげた。
「お姉ちゃん、開けるよ」
喪服のワンピースを着た依舞が入ってきた。
「起きた?」
「ん……ちょうどね」
「顔、赤いの引いてるみたい。熱、さがった?」
そう言われて、体のだるさが消え去っていることに気づいた。悪化してもおかしくないのに、熱も下がっていて、不思議なほど気分もすっきりしている。
「もうすぐ告別式はじまるから、その前に様子見にきたんだけど、具合はどう?」
「たぶん大丈夫。参列するよ」
「でも……平気?」と心配そうな依舞に笑みを返して、布団から出た。
「慣れない場だったのと、仕事の疲れが一気に出ただけだと思うから」
時刻は九時半。急いで仕度すれば十分間に合う。
「じゃあママに伝えてくる」
部屋を出ようとした依舞がふと何かを思い出したように振り返った。その目がからかい半分に笑っていて、嫌な予感がした。
「ねえお姉ちゃん、白彦さんて、お姉ちゃんのこと好きなんだね」
突拍子もない話に何を言われたのか一瞬ついていけなかった。
「ちょっとね、悟おじさんと白彦さんが話してるの聞いちゃって。なんか親子ゲンカ? してるみたいな雰囲気だったけど。でも白彦さん、お姉ちゃんのことは僕が守るって」
依舞があざといくらいの笑顔を浮かべた。
「ねね、お姉ちゃんもさ、まんざらじゃないんでしょ?」
第三者から、自分への好意を聴かせられると真実味が増すらしい。
「そっ、そんなことはいいから、お母さんに伝えてくるんでしょ、もう急いで準備しなきゃならないんだから余計なこと言ってない!」
「はあい」と、可愛く舌を出して、依舞は身を翻すとぱたぱたと廊下を走っていった。
せっかく熱が下がったのに、頬が火照って熱い。
またぶり返したらどうしてくれる。ぶちぶちと文句を言いながら、皐月は仕度を始めた。
白彦が自分に好意をもってくれていることは気づいていた。もちろん嬉しくないわけじゃない。
でもこんな時に、という気持ちと、狐面の男の子のこともある。それに白彦との思い出をさっぱりと忘れていた身で、好意を寄せられているからという単純な理由でなびけるほどの余裕が、今の皐月にはなかった。