狐の声がきこえる
4
すでに屋敷の外に集まっていた親族たちの隙間に体を滑り込ませると、護伯父を待っていた親族たちが、棺を霊柩車にのせるために動き出した。
「もういい社会人なんだからこういう時ぐらいしっかりしてちょうだい。恥ずかしい」
皐月の姿を認めて、母が小さな声で抑えきれない苛立ちをにじませた。
「……ごめんなさい」
「まったくもう、育て方失敗したのかしら……」
何度となく聞いてきた小言に目を伏せてやり過ごす。
就職を機に一人暮らしを始めてからは、小言を聞く回数はだいぶ減った。でもだからといって母の中で皐月の位置づけが変わったわけではない。むしろ離れた分、その小言の重さが身にしみた。皐月がどんなにしっかりしようとしても、母の理想には、いつだって届かない。
プアアアアアアアン!
クラクションが少しざわついていた空気を裂くように長く鳴らされた。祖母の棺を載せた霊柩車がゆっくり屋敷を出ていく。、
最近の東京では見かけないけれど、この辺りではまだ宮型霊柩車は現役だ。白木造りに金と黒の装飾が荘厳な宮をのせた車体はまばゆく、厳かにも華々しく火葬場へと送り出してあげるのが、死者への手向けなのだと聞いた。
その場に残っていた誰もが手を合わせ、すすり泣く声が聞こえてきた。
霊柩車を追うようにして長屋門までなんとなく歩き出し、そこから田んぼの向こうへと遠ざかる霊柩車を見つめた。
しんみりした親族の気分を裏切るように、いつのまにか空は雲が薄くなって、その向こうの青さが透けて見えた。田んぼの苗は、どんな空の下でも変わらずに優しく揺れている。
あの日、狐の嫁入りを見た幼いあの日。
晴れ渡る空だったのに、急に薄い硝子玉のような雨が降ってきた。
「ここらではね、狐の嫁入りを見たら魂とられちゃうんだよ」
そう教えてくれたのは、白彦だ。
狐の嫁入りを目撃してからしばらくの間、皐月は長屋門から古宇利里山の林の方角を見るのが怖かった。そのことで、白彦はよく皐月をからかった。
遊びに出かける時に、長屋門のところでわざと立ち止まって、林の方を指さすのだ。
ーーほら、あそこ。狐の嫁入りだよ。
そう言われて泣き出しそうになる皐月を、白彦は意地悪な笑みを浮かべて眺めていた気がする。でもそんな場面を、祖母は見つける度に「皐月ゃいじめんでね!」と怒っていた。
「狐の嫁入りを見たら魂をとられる……」呟くと、祖母が怖がって泣く皐月の頭を撫でた。その手は、しわだらけで、分厚かった。
ーー大丈夫だ。ばあちゃんが山ん神さ皐月んこと連れてくなって祈ってやっがら。
山の神。
土蔵に祀られた神に、祖母はいつも祈っていた。ひたすら畏敬と感謝とを祈りにこめて熱心に手を合わせている背中を、幼い皐月はよく扉口から見かけていた。だから皐月も見よう見まねで、土蔵に入った時は必ず神棚に手を合わせるようになっていた。
名も知らぬ、どんな神かも知らぬ、土蔵の山の神。
ふと脳裏に閃くような純白の光が掠めた。その光の中に淡い桜色が混じるようにして眼裏をだんだらに染め、ぞわりと背筋を冷たいものが撫でた。頭の隅で銅鑼を鳴らすように何かが、痛みを伴いながらしきりに主張している。
さあさあと絹雨の音が聞こえてきた。あの日は朝から雨が降っていて、せっかく白彦と外で遊びたいと思っても、肝心の白彦の姿がなくて探していたのだ。
小さな赤い傘をさしてうろうろしているうちに、土蔵に通じる建物の脇から不意に白彦が飛び出してきた。
「いた!」
笑みを浮かべた皐月に、白彦は駆け去りかけた体をそのままに頭だけ振り返った。傘もささずに髪から服からすべて濡れそぼち、水滴を滴らせた白彦は怯えたように表情を歪ませていた。
「きよくん?」
様子のおかしさに一歩近づいた皐月に、白彦はわずかに何かを言いたげに口を動かして、それから泣きだしそうな顔をした。
「きよくん、どうしたの? 誰かにいじめられたの?」
「さ、皐月、ちゃ……ぼ、僕……」
声が震え、皐月の名前さえきちんと言えないほどに怯えていた。思わず手をのばして触れようとした瞬間、白彦は弾かれたように後ずさり、頭を振ると長屋門の方に引き止める間もなく、逃げるように駆け去った。
呆気にとられた皐月は、白彦を追いかけることも忘れていた。
その時、土蔵の方角からかすかに扉がきしむような音が聞こえてきた。
一瞬、白彦の方に行こうか、それとも土蔵の方に行こうか迷い、好奇心に負けた皐月は音のした方を選んで歩き出した。こん、と小さな音がして、足元で何か光るものが転がった。
それは青と金のビー玉だった。それが雨に濡れてきらきらしていた。皐月は「わあ」と声をあげて拾うと、ポケットの中にしまって裏庭へと足を向けた。
裏庭は、雨の中で静かに呼吸していた。
名も知らぬ草たちの向こうで、土蔵の扉がかすかに開いていた。日頃から必ずドアを閉めるように躾けられていた皐月は、その扉を閉めようと階段をのぼった。
扉に手をかけた時、土蔵の中からかすかに甘い匂いを含んだ風が吹いてきた。さらに衣擦れのような音と、水の滴る音が誘うように聞こえてきた。不思議に思った皐月は傘を扉のそばに立てかけて土蔵の内側へ小さな体を滑り込ませた。
いつもは暗い土蔵の中が、神棚の前だけぼうっと明るかった。ためらいもなく一歩足を踏み出しかけて、その場から動けなくなった。
土蔵の奥に、足元まで届くまっすぐな黒髪の女性が背を向けて立っていたからだ。彼女が、知らない人だということはすぐに分かった。身につけた真っ白な着物も見たことがないほど透き通るように美しく、幼い皐月は目を奪われた。
でもその女性がゆっくり振り返り始めた瞬間、なぜか怖くなった。それでも目が離せなかった。小さな体の中で恐怖とパニックが嵐のように荒れ狂い、皐月は声も出せず身動きもできぬまま扉の内側で突っ立っていた。
振り返らんとした女性は、ふと途中で動きをとめた。そしておもむろに着物の袖で口元を覆った。
「……匂う……」
近くにいるはずではないのに、まるで耳元で囁かれるような近さから声が聞こえた。とても涼やかで柔らかい声音なのに、芯は凍てついているような嫌悪感に満ち満ちていた。
「おお嫌じゃ……獣臭うてたまらぬ……」
それは明らかに自分を拒絶する言葉だった。
全身に大きな岩が降ってきたようなショックを受け、そのショックに頭が真っ白になると同時に光の洪水が皐月をのみこんだ。土蔵にいたはずなのに、自分の手さえ見えないほど真っ白の世界に放り出されていた。それはとても冷たくて、寒くて、体の底から震えがのぼってきた。
「お姉さん……」
心細さに、さきほどいた女性の姿を探しても見当たらない。このまま一人取り残されることの絶望的な孤独感に襲われ、皐月は泣き出しそうになりながら動けるようになった体でぽつぽつと歩いては、立ち止まった。そして自分の体を見下ろした。体の感覚はあっても真っ白な光に侵されて輪郭を掴むことはできない。余計に不安と恐怖に追われ、再び歩いては立ち止まった。
「ママ……、パパ……。おばあちゃん、おじいちゃん」
呼びかけても、誰も応えない。
「ママ、パパ」
堪えきれなくなって、皐月はついにその場で泣き出した。
「ママあ、パパあ」
誰の声もどんな音も聞こえない。自分のわんわん泣く声さえも、辺りの白い光に吸い込まれて、どこにも届かないように思えた。
「帰りたいよう、ママあ」
呼んでも誰にも届かないのだと、そういう場所なのだとなんとなく分かり始めた時、ポケットの中で何かが音を立てた。手をポケットの中に入れると、ビー玉が熱をもっていた。
「きよくん……」
小さく呟いた時、不意に白い光に金色の光が射し込んだ。そして遠くから皐月の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「……ちゃん、月ちゃん……! くそ、開かない……!」
「きよくん! きよくん!」
まぎれもなく白彦の声だった。
泣き叫んで、皐月は目の前の扉にすがりついた。いつのまにか光は消え、周りの風景はいつもの土蔵に戻っていた。そして自分は土蔵に入ってきた時の位置からまったく動いていなかった。
もちろん神棚のところに、その女性の姿は、影も形もなかった。
「……ちゃん、……月ちゃん、皐月ちゃん、」
呼ぶ声がすぐそばで聞こえて、皐月はハッと振り返った。
白彦が心配そうに自分を見ている。
「もう火葬場へ出発するよ。……大丈夫?」
「……う、うん……」
記憶を反芻して、返事が曖昧になった。
「本当に大丈夫?」
そう言って、白彦は熱を確かめるようにさ月の額に触れた。
「え、あ、だ、大丈夫だよ」
「ほんと?」
心配そうな白彦を安心させるようにしっかり頷いて見せた。
再会した大人の白彦は、とても優しい。年月はあっという間に子どもを大人にして、男の子を男に変える。皐月が知らない時間をもつ白彦に、狐面の男の子や、出会った頃の白彦を重ねる方が難しいのかもしれない。
「……きよくんて、意地悪なのか優しいのか分からない」
「えっ、え、そうかな……なんか思い出したの?」少し罰が悪そうに白彦は切れ長の目でちらりと皐月を見た。
「うん、狐の嫁入りのことで魂とられるよって」
「……うん、まあ……なんていうか、古い言い伝えなんだけど、ここら辺の子どもは小さいうちからいい子にしないとそうなるって言われて育つから……」
困った顔で言葉を濁す白彦に、皐月は小さく笑って長屋門から離れて歩き始めた。
「……私、小さい頃、うろ覚えだけど、この門のとこから見てると思う、その狐の嫁入り」
「うん、おばあちゃんに聞いた」
「じゃあ、私やっぱり見たんだ。自信なくなってたけど……おばあちゃんが信じてくれてるってことは」
それはきっと、祖父もだろう。母と父が子どもの熱が見せた幻覚だろうと笑っても、あの二人だけは、ひどく真剣な眼差しをしていた気がする。
「……ねえ皐月ちゃん」
呼ばれて振り返ると、白彦は立ち止まったまま、深く思案するような瞳で皐月を見つめていた。
「皐月ちゃんは、何が知りたいの?」
祖母の葬儀で久しぶりに訪れた本家で、自分は、幼い頃のひどく曖昧な記憶を、まるで何か見知らぬ力に導かれるように断片的に思い出し続けている。その記憶に連なるように、得体の知れない狐面の男の子とも出会った。導かれた先には、もの言わぬ、でもそれ以上に皐月を惹きつける土蔵があった。
山の神、狐の嫁入り、とられてしまう魂。
祖母の死をきっかけに、自分に深く根をおろす何かが、暗闇に隠されてきた何かが引きずり出されようとしている。その何かを、自分は知らなくてはならない。
「分からない。……でも知らなくちゃいけない気がするの」
「……言い伝えはあくまで言い伝えだけど」
白彦は小さくため息をつくと皐月を追い越して、火葬場に向かう貸切バスへと歩き出した。
「すべてが嘘なわけでもない。真実なわけでもない。ここら辺は古い土地だからね、そういうのはひどく曖昧なんだよ」
何を言いたいのか分からず、前を歩く白彦の背中を訝しげに見つめた。
「だから、あまりそういう方面に深入りすると、戻れなくなることもある……。それでも?」
振り返った白彦の、どこか諦めの色を帯びた哀しい瞳を皐月は見返した。
深入りすると戻れないというなら、もうとっくに戻れない。
祖母を亡くした時点で、自分はもどれる道を一つ失っている。
いや、もしかしたらあの日、狐の嫁入りを見た時からすでに道を違えていたのかもしれない。
「……それでも、知らなくちゃいけない気がするの」
「そうか……」
白彦はかすかに口を引き締めるように結んで、それから皐月との間に流れる空気を一掃するように晴れやかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、僕は皐月ちゃんが満足いくまで、できることをしよう。どうかな?」
「そんな。私個人の問題なのにそんなのわ」
皐月の言葉を遮って、白彦が頭をふった。
「僕はおばあちゃんのことも皐月ちゃんが小さい頃のこともこの土地のことも知ってる。僕だから役に立てる」
「でも」
「もういい社会人なんだからこういう時ぐらいしっかりしてちょうだい。恥ずかしい」
皐月の姿を認めて、母が小さな声で抑えきれない苛立ちをにじませた。
「……ごめんなさい」
「まったくもう、育て方失敗したのかしら……」
何度となく聞いてきた小言に目を伏せてやり過ごす。
就職を機に一人暮らしを始めてからは、小言を聞く回数はだいぶ減った。でもだからといって母の中で皐月の位置づけが変わったわけではない。むしろ離れた分、その小言の重さが身にしみた。皐月がどんなにしっかりしようとしても、母の理想には、いつだって届かない。
プアアアアアアアン!
クラクションが少しざわついていた空気を裂くように長く鳴らされた。祖母の棺を載せた霊柩車がゆっくり屋敷を出ていく。、
最近の東京では見かけないけれど、この辺りではまだ宮型霊柩車は現役だ。白木造りに金と黒の装飾が荘厳な宮をのせた車体はまばゆく、厳かにも華々しく火葬場へと送り出してあげるのが、死者への手向けなのだと聞いた。
その場に残っていた誰もが手を合わせ、すすり泣く声が聞こえてきた。
霊柩車を追うようにして長屋門までなんとなく歩き出し、そこから田んぼの向こうへと遠ざかる霊柩車を見つめた。
しんみりした親族の気分を裏切るように、いつのまにか空は雲が薄くなって、その向こうの青さが透けて見えた。田んぼの苗は、どんな空の下でも変わらずに優しく揺れている。
あの日、狐の嫁入りを見た幼いあの日。
晴れ渡る空だったのに、急に薄い硝子玉のような雨が降ってきた。
「ここらではね、狐の嫁入りを見たら魂とられちゃうんだよ」
そう教えてくれたのは、白彦だ。
狐の嫁入りを目撃してからしばらくの間、皐月は長屋門から古宇利里山の林の方角を見るのが怖かった。そのことで、白彦はよく皐月をからかった。
遊びに出かける時に、長屋門のところでわざと立ち止まって、林の方を指さすのだ。
ーーほら、あそこ。狐の嫁入りだよ。
そう言われて泣き出しそうになる皐月を、白彦は意地悪な笑みを浮かべて眺めていた気がする。でもそんな場面を、祖母は見つける度に「皐月ゃいじめんでね!」と怒っていた。
「狐の嫁入りを見たら魂をとられる……」呟くと、祖母が怖がって泣く皐月の頭を撫でた。その手は、しわだらけで、分厚かった。
ーー大丈夫だ。ばあちゃんが山ん神さ皐月んこと連れてくなって祈ってやっがら。
山の神。
土蔵に祀られた神に、祖母はいつも祈っていた。ひたすら畏敬と感謝とを祈りにこめて熱心に手を合わせている背中を、幼い皐月はよく扉口から見かけていた。だから皐月も見よう見まねで、土蔵に入った時は必ず神棚に手を合わせるようになっていた。
名も知らぬ、どんな神かも知らぬ、土蔵の山の神。
ふと脳裏に閃くような純白の光が掠めた。その光の中に淡い桜色が混じるようにして眼裏をだんだらに染め、ぞわりと背筋を冷たいものが撫でた。頭の隅で銅鑼を鳴らすように何かが、痛みを伴いながらしきりに主張している。
さあさあと絹雨の音が聞こえてきた。あの日は朝から雨が降っていて、せっかく白彦と外で遊びたいと思っても、肝心の白彦の姿がなくて探していたのだ。
小さな赤い傘をさしてうろうろしているうちに、土蔵に通じる建物の脇から不意に白彦が飛び出してきた。
「いた!」
笑みを浮かべた皐月に、白彦は駆け去りかけた体をそのままに頭だけ振り返った。傘もささずに髪から服からすべて濡れそぼち、水滴を滴らせた白彦は怯えたように表情を歪ませていた。
「きよくん?」
様子のおかしさに一歩近づいた皐月に、白彦はわずかに何かを言いたげに口を動かして、それから泣きだしそうな顔をした。
「きよくん、どうしたの? 誰かにいじめられたの?」
「さ、皐月、ちゃ……ぼ、僕……」
声が震え、皐月の名前さえきちんと言えないほどに怯えていた。思わず手をのばして触れようとした瞬間、白彦は弾かれたように後ずさり、頭を振ると長屋門の方に引き止める間もなく、逃げるように駆け去った。
呆気にとられた皐月は、白彦を追いかけることも忘れていた。
その時、土蔵の方角からかすかに扉がきしむような音が聞こえてきた。
一瞬、白彦の方に行こうか、それとも土蔵の方に行こうか迷い、好奇心に負けた皐月は音のした方を選んで歩き出した。こん、と小さな音がして、足元で何か光るものが転がった。
それは青と金のビー玉だった。それが雨に濡れてきらきらしていた。皐月は「わあ」と声をあげて拾うと、ポケットの中にしまって裏庭へと足を向けた。
裏庭は、雨の中で静かに呼吸していた。
名も知らぬ草たちの向こうで、土蔵の扉がかすかに開いていた。日頃から必ずドアを閉めるように躾けられていた皐月は、その扉を閉めようと階段をのぼった。
扉に手をかけた時、土蔵の中からかすかに甘い匂いを含んだ風が吹いてきた。さらに衣擦れのような音と、水の滴る音が誘うように聞こえてきた。不思議に思った皐月は傘を扉のそばに立てかけて土蔵の内側へ小さな体を滑り込ませた。
いつもは暗い土蔵の中が、神棚の前だけぼうっと明るかった。ためらいもなく一歩足を踏み出しかけて、その場から動けなくなった。
土蔵の奥に、足元まで届くまっすぐな黒髪の女性が背を向けて立っていたからだ。彼女が、知らない人だということはすぐに分かった。身につけた真っ白な着物も見たことがないほど透き通るように美しく、幼い皐月は目を奪われた。
でもその女性がゆっくり振り返り始めた瞬間、なぜか怖くなった。それでも目が離せなかった。小さな体の中で恐怖とパニックが嵐のように荒れ狂い、皐月は声も出せず身動きもできぬまま扉の内側で突っ立っていた。
振り返らんとした女性は、ふと途中で動きをとめた。そしておもむろに着物の袖で口元を覆った。
「……匂う……」
近くにいるはずではないのに、まるで耳元で囁かれるような近さから声が聞こえた。とても涼やかで柔らかい声音なのに、芯は凍てついているような嫌悪感に満ち満ちていた。
「おお嫌じゃ……獣臭うてたまらぬ……」
それは明らかに自分を拒絶する言葉だった。
全身に大きな岩が降ってきたようなショックを受け、そのショックに頭が真っ白になると同時に光の洪水が皐月をのみこんだ。土蔵にいたはずなのに、自分の手さえ見えないほど真っ白の世界に放り出されていた。それはとても冷たくて、寒くて、体の底から震えがのぼってきた。
「お姉さん……」
心細さに、さきほどいた女性の姿を探しても見当たらない。このまま一人取り残されることの絶望的な孤独感に襲われ、皐月は泣き出しそうになりながら動けるようになった体でぽつぽつと歩いては、立ち止まった。そして自分の体を見下ろした。体の感覚はあっても真っ白な光に侵されて輪郭を掴むことはできない。余計に不安と恐怖に追われ、再び歩いては立ち止まった。
「ママ……、パパ……。おばあちゃん、おじいちゃん」
呼びかけても、誰も応えない。
「ママ、パパ」
堪えきれなくなって、皐月はついにその場で泣き出した。
「ママあ、パパあ」
誰の声もどんな音も聞こえない。自分のわんわん泣く声さえも、辺りの白い光に吸い込まれて、どこにも届かないように思えた。
「帰りたいよう、ママあ」
呼んでも誰にも届かないのだと、そういう場所なのだとなんとなく分かり始めた時、ポケットの中で何かが音を立てた。手をポケットの中に入れると、ビー玉が熱をもっていた。
「きよくん……」
小さく呟いた時、不意に白い光に金色の光が射し込んだ。そして遠くから皐月の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「……ちゃん、月ちゃん……! くそ、開かない……!」
「きよくん! きよくん!」
まぎれもなく白彦の声だった。
泣き叫んで、皐月は目の前の扉にすがりついた。いつのまにか光は消え、周りの風景はいつもの土蔵に戻っていた。そして自分は土蔵に入ってきた時の位置からまったく動いていなかった。
もちろん神棚のところに、その女性の姿は、影も形もなかった。
「……ちゃん、……月ちゃん、皐月ちゃん、」
呼ぶ声がすぐそばで聞こえて、皐月はハッと振り返った。
白彦が心配そうに自分を見ている。
「もう火葬場へ出発するよ。……大丈夫?」
「……う、うん……」
記憶を反芻して、返事が曖昧になった。
「本当に大丈夫?」
そう言って、白彦は熱を確かめるようにさ月の額に触れた。
「え、あ、だ、大丈夫だよ」
「ほんと?」
心配そうな白彦を安心させるようにしっかり頷いて見せた。
再会した大人の白彦は、とても優しい。年月はあっという間に子どもを大人にして、男の子を男に変える。皐月が知らない時間をもつ白彦に、狐面の男の子や、出会った頃の白彦を重ねる方が難しいのかもしれない。
「……きよくんて、意地悪なのか優しいのか分からない」
「えっ、え、そうかな……なんか思い出したの?」少し罰が悪そうに白彦は切れ長の目でちらりと皐月を見た。
「うん、狐の嫁入りのことで魂とられるよって」
「……うん、まあ……なんていうか、古い言い伝えなんだけど、ここら辺の子どもは小さいうちからいい子にしないとそうなるって言われて育つから……」
困った顔で言葉を濁す白彦に、皐月は小さく笑って長屋門から離れて歩き始めた。
「……私、小さい頃、うろ覚えだけど、この門のとこから見てると思う、その狐の嫁入り」
「うん、おばあちゃんに聞いた」
「じゃあ、私やっぱり見たんだ。自信なくなってたけど……おばあちゃんが信じてくれてるってことは」
それはきっと、祖父もだろう。母と父が子どもの熱が見せた幻覚だろうと笑っても、あの二人だけは、ひどく真剣な眼差しをしていた気がする。
「……ねえ皐月ちゃん」
呼ばれて振り返ると、白彦は立ち止まったまま、深く思案するような瞳で皐月を見つめていた。
「皐月ちゃんは、何が知りたいの?」
祖母の葬儀で久しぶりに訪れた本家で、自分は、幼い頃のひどく曖昧な記憶を、まるで何か見知らぬ力に導かれるように断片的に思い出し続けている。その記憶に連なるように、得体の知れない狐面の男の子とも出会った。導かれた先には、もの言わぬ、でもそれ以上に皐月を惹きつける土蔵があった。
山の神、狐の嫁入り、とられてしまう魂。
祖母の死をきっかけに、自分に深く根をおろす何かが、暗闇に隠されてきた何かが引きずり出されようとしている。その何かを、自分は知らなくてはならない。
「分からない。……でも知らなくちゃいけない気がするの」
「……言い伝えはあくまで言い伝えだけど」
白彦は小さくため息をつくと皐月を追い越して、火葬場に向かう貸切バスへと歩き出した。
「すべてが嘘なわけでもない。真実なわけでもない。ここら辺は古い土地だからね、そういうのはひどく曖昧なんだよ」
何を言いたいのか分からず、前を歩く白彦の背中を訝しげに見つめた。
「だから、あまりそういう方面に深入りすると、戻れなくなることもある……。それでも?」
振り返った白彦の、どこか諦めの色を帯びた哀しい瞳を皐月は見返した。
深入りすると戻れないというなら、もうとっくに戻れない。
祖母を亡くした時点で、自分はもどれる道を一つ失っている。
いや、もしかしたらあの日、狐の嫁入りを見た時からすでに道を違えていたのかもしれない。
「……それでも、知らなくちゃいけない気がするの」
「そうか……」
白彦はかすかに口を引き締めるように結んで、それから皐月との間に流れる空気を一掃するように晴れやかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、僕は皐月ちゃんが満足いくまで、できることをしよう。どうかな?」
「そんな。私個人の問題なのにそんなのわ」
皐月の言葉を遮って、白彦が頭をふった。
「僕はおばあちゃんのことも皐月ちゃんが小さい頃のこともこの土地のことも知ってる。僕だから役に立てる」
「でも」