狐の声がきこえる
祈りと願い
結局、悟伯父は遺族が集まる火葬場には姿を見せず、白彦が伯父たちに頭を下げて回っていた。
火葬場から屋敷に帰るバスの中は、行きとは違ってどこかしんみりとしていて、皆が物思いにふけっているようだった。
祖母が火葬され、肉体はもうこの世には存在しない。その事実が、とても重かった。
火葬場で骨を拾わせてもらった時、あまりの軽さに呆然とした。呼吸をしていない、命の火が消えた肉体でも形があるのとないのとでは全然違う。祖母が、まさにこの世界には存在しなくなったのだと、これで、本当に自分は祖母に伝える機会を永遠に失ったのだと、現実を突きつけられた。
その時の空虚さと、この短期間に起きたさまざまなこととが重なって、今はただ言葉も出ないほどの疲れに、皐月もまた虚脱したようにバスに揺られているだけだった。
考えなくてはならないことがたくさんあるのはわかっていても、まとまらない。
車で別行動となった白彦の姿がこのバスにないことだけが、どこか救いだった。もしそばにいたら、これまでとは同じようには接するなんてできなかった。
バスが本家に着いても、先に車で出たはずの白彦の姿はなかった。
仏間に安置された桐箱に向き合う覚悟ももてず、皐月は神棚の掃除を口実に土蔵へと足を向けた。途中で帰り支度を始めている従兄弟たちに挨拶をしながら、翳っていく光に包まれ始めている裏庭に足を踏み入れた。
祖母が骨の形で帰ってきても、変わらずひっそり閑としている。
建物の影で溜まりつつある暗闇を見ないようにしながら蔵の前に立つと、扉がわずかに開いていた。中からうっすらとした明かりが漏れている。
誰かがいる。物を動かすような重い音が聞こえてくる。
のぞきこむと、護伯父が家財や行李の隙間に体を屈めたり覗きこんだりしているのが見えた。
「おじさん。何してるの?」
声をかけると、護伯父は驚いたように顔を上げ、笑みを深くした。
「皐月ちゃんか。いや、ちょっと探し物をな……」
土蔵の中で舞っている埃を吸わないように口元を抑えて足を踏み入れた。
「ここでまた会うとは、よくよく皐月ちゃんは土蔵と縁があんだな。というより、この神さんが呼んでるのかもしれねえなあ」
山の神が呼んでいる。
一瞬、その響きにどきりとしながら、皐月は護伯父のそばに近づいた。
「帰る前に神棚の掃除くらいしようかと思って」
「おお、偉い心がけだっぺ。風子もなあ……」
「でも風子おばさん、ここ苦手だって言ってたから」
「だからって本家のしきたりを粗末にする言い訳にはなんめ。あいつはああ見えて祭主としてここらを守ってかなきゃなんねえんだから」
耳慣れない言葉に、皐月は眉をひそめた。
「さいしゅ、って何?」
聞き返すと、護伯父はハッとしたように口ごもった。
「ううん、まあ、その、だな……」
少し考える素振りを見せてから、護伯父は諦めたように息をついた。
「あまり人に言うことじゃねえんだ」そう前置きして、近くの古く白茶けた椅子に腰掛けた。
「ここに神さんを祀っているように、本家の敷地や周りにはいくつかこうして神棚があっぺ? 人目にはつかねえけどな。本家にゃ、それを順繰りにめぐって、その年とれた米と山の水を供えて、祈りを捧げるならわしが昔からあってな。代々、その先代から指名を受けた人間がずっと引き継いできてんだ」
「じゃあ今は風子おばさんが引き継いだってこと?」
「そうだ。先代はばあさんだったんだ。その前は亡くなったじいさんだったけどな」
「親から子に受け継ぐわけじゃないんだ? どうやって決めてるの?」
「……皐月ちゃんみてえな都会の子にゃ、信じられんかもしらん」そう前置きして、護伯父は言葉を続けた。
「なんていえば伝わっかなあ……、見るって言えばいいか」
「見る?」
「そう、この土蔵で見るんだ、普通の人にゃ見えんもんをな」
ふと土蔵で見たそれを思い出した。「それは」もしかしてと言いかけて、護伯父は頭を振った。
「これ以上はオレからはなんも言えねえ。オレは見てねえがら。ただ見たからっちゅうて、おいそれと口にすることじゃねえしな」
護伯父が言う、普通の人に見えないものが、皐月が見たものと同じとは限らない。それでも同じような気もした。
「……こういうの、この辺の家は皆やってることなの?」
「さあなあ……。ただ古くからの家はやってると聞くけど、もう廃れてるとこもあんだ。ただうちの場合は、この辺でも規模が大きいらしくてな。まあこの辺の農家のまとめ役として機能してるせいかもしんねえけどな。ばあさん曰く、豊穣の祈願だけじゃねえ、悪いもんが入ってくるのを阻止する役割もあんだと。周りの家屋敷の守りも兼ねてるから、決しておろそかにするんじゃねえと」
小里が同じことを言っていたことを思い出した。
「悪いもの……?」
「それが何か聞いたんだけどな、教えてくれねかったなあ。分かる人間にゃ分かるんだと。分からなければそれは分からないままがいいんだと」
謎かけのような言葉だと思った。
でもそれはつまり、祖母も、そして小里もその悪いものを知っていたということだ。だからといって、その悪いものに狐面の男の子があたるとは思えなかった。むしろ悟伯父の方がよっぽどそれに近い。
「でも風子おばさん、いくら本家の近くに住んでるからって、毎日ここに来てそれするのはけっこう大変じゃない? おじさんじゃダメなの?」
「まあその辺はばあさんに俺も聞いたんだ。風子じゃ大変だべって。でも風子は見ちまったし、風子が一番そういうの向いてんだと。本人の希望とか関わりねえとこでな」
そう言うと護伯父は重そうに腰を上げた。
「風子にゃ気の毒だがな。詳しいことはこれからだっつう時にばあさんは逝っちまったから。まあご指名あっただけマシってことか」
伯父が神棚を見上げる。つられて皐月も見上げた。
お狐さんを供えることといい、祈りを欠かさないことといい、幼い頃なじんだはずのこの土地が急に見知らぬ場所のように遠ざかった。都会の新興住宅の多い街で育つと、いまだに祈りが生々しく息づいているのには少し戸惑う。彼らは、そのならわしに対して億劫がることはあっても、決してやめるという選択はしないにちがいない。
ふと屋敷の前に広がる田んぼを思い出した。
連綿と、受け継がれてきた営み。
その悠久さに、気後れしそうになる。でも護伯父も風子伯母も、そして白彦も、脈々とその流れの中に生きている。生き続けていく。
「ねえおじさん、キツネ……お狐さんをお供えするならわしも、今の話と関係するんだよね?」
探し物の続きを始めていたずんぐりとしたその背中が大きく反応した。
「……それ、誰から聞いた?」
「風子おばさん」
大きくため息をついて、護伯父は頭痛でもしているかのように顔をしかめながら体を起こした。
「あいつはまあぺらぺらと」
「違うの、私が気になって聞いただけだから」
「あんまりそれ、よそには言わんでくれな。このご時世、動物虐待で糾弾されかねねえべ」
「言わないよ……」
「しっかしよくよく、皐月ちゃんは縁あんだな。他の従兄弟らは知りもしねえべ」
護伯父は手にしていた紙の束から一枚抜き取った。
少し汚れた封筒だ。それを皐月に差し出しながら、言葉を続けた。
「まあお狐さんを供えてたのはじいさんが猟をしてた頃までな。お狐さんが、悪いもんと関係あったのかはそこまでは知らねえ。昔は仕事の一つだったべが、今はそんなことさすがにできねえしな。まあばあさんが逝っちまったからもう詳しいこと知る人もねえだろうしなあ」
護伯父はそこまでひと息に言うと、役目を終えたと言わんばかりに出口に向かった。慌ててその背中に声をかけた。
「あの、小里のおばさんなら何か知ってる?」
「小里さんが?」
護伯父が振り返った。
「ずっとおばあちゃんたちのそばで手伝ってきてくれた人なんでしょう?」
「どうだべ。小里さんはあくまで農業経営の片腕だかんな。多少は見聞きしてっがもしんねけど……なあ皐月ちゃん」
「はい」
「あんま深入りすんな。オレもそういうことは詳しくねえし、だからなんかあっても、かばってやれん。それに、人には人それぞれ、守るべき分っちゅうもんがある。それを先祖代々守ってきだがら、この本家もこうして安泰でこれたんだ。興味だけで首つっこむもんじゃねえべ」
厳しい顔つきで言われたことに、小さく「はい……」とうなだれた。皐月が落ちこんだのを見てとった護伯父は、付け加えたように手を振った。
「いや、皐月ちゃんが悪いわけじゃねえんだ。だけど、他の子らはこういうことはなんも知らん。オレもまだ息子にゃなんも言ってねえし、あれも知らんべ。だからこそ大事にしてほしいだけだ」
「うん、分かってる……。ねえ、おじさん、これ」
最初に渡された封筒に目をやった。
「ばあさんから。孫たちにはそれぞれ渡しといてくれってだいぶ前に頼まれてたの、さっき思い出してな。皆まだ帰ってなきゃいいが」
「なら急がないと。もう帰り支度はじめてたから」
「おお、そりゃマズイな。皐月ちゃんはいつ東京に帰んのけ?」
「たぶん明日の朝早くだと思う」
「そうけ。時間あったらでいいかんな、神棚綺麗にすんの大変だべ」
そう言って裏庭を出ていく伯父を見送りながら、土蔵の梁を伝って電線が引かれた灯りのぼんやりとした光の下に皐月はひとり取り残された。
昔ながらの小さな傘の下で、本当にお情け程度の裸電球が小さな音を立てた。蔵の中を埋め尽くす家財は埃の中で沈黙を続け、神棚は薄汚れたままだ。
ふと、その下の古いヒノキの一枚板の台が目に入った。黒々としたシミが天板に広がっている。それは嫌が応にも不吉な想像をかきたてた。
代々、狐の血を吸ってきたお供え用の台なのかもしれない。
一瞬よぎった不気味な想像をすぐに打ち消して、大きく息を吸うと皐月は「よし」という掛け声とともに腕まくりをした。土蔵の神棚にのっていた神具や器をいったん取り除いてから、埃をはたきで落とし、濡れ雑巾でさっと棚の汚れを拭う。それから乾いたご飯は捨て、汚れた水の線が残ったお供えの陶器は丁寧に洗った。榊立ての榊は抜いて、蜘蛛の巣があれば取り去り、一枚一枚の葉に積もった埃をふきとった。そうして掃除に没頭していると、神棚の陶器は甲斐あって元の白さを取り戻し、神棚全体がすっきりしたようだった。
ひと段落させた皐月は、さっき護伯父がかけていた椅子に腰掛け、祖母の手紙をとりだした。
シンプルで変哲もない手紙は、「皐月へ」と少し達筆な字体で始まっていた。
火葬場から屋敷に帰るバスの中は、行きとは違ってどこかしんみりとしていて、皆が物思いにふけっているようだった。
祖母が火葬され、肉体はもうこの世には存在しない。その事実が、とても重かった。
火葬場で骨を拾わせてもらった時、あまりの軽さに呆然とした。呼吸をしていない、命の火が消えた肉体でも形があるのとないのとでは全然違う。祖母が、まさにこの世界には存在しなくなったのだと、これで、本当に自分は祖母に伝える機会を永遠に失ったのだと、現実を突きつけられた。
その時の空虚さと、この短期間に起きたさまざまなこととが重なって、今はただ言葉も出ないほどの疲れに、皐月もまた虚脱したようにバスに揺られているだけだった。
考えなくてはならないことがたくさんあるのはわかっていても、まとまらない。
車で別行動となった白彦の姿がこのバスにないことだけが、どこか救いだった。もしそばにいたら、これまでとは同じようには接するなんてできなかった。
バスが本家に着いても、先に車で出たはずの白彦の姿はなかった。
仏間に安置された桐箱に向き合う覚悟ももてず、皐月は神棚の掃除を口実に土蔵へと足を向けた。途中で帰り支度を始めている従兄弟たちに挨拶をしながら、翳っていく光に包まれ始めている裏庭に足を踏み入れた。
祖母が骨の形で帰ってきても、変わらずひっそり閑としている。
建物の影で溜まりつつある暗闇を見ないようにしながら蔵の前に立つと、扉がわずかに開いていた。中からうっすらとした明かりが漏れている。
誰かがいる。物を動かすような重い音が聞こえてくる。
のぞきこむと、護伯父が家財や行李の隙間に体を屈めたり覗きこんだりしているのが見えた。
「おじさん。何してるの?」
声をかけると、護伯父は驚いたように顔を上げ、笑みを深くした。
「皐月ちゃんか。いや、ちょっと探し物をな……」
土蔵の中で舞っている埃を吸わないように口元を抑えて足を踏み入れた。
「ここでまた会うとは、よくよく皐月ちゃんは土蔵と縁があんだな。というより、この神さんが呼んでるのかもしれねえなあ」
山の神が呼んでいる。
一瞬、その響きにどきりとしながら、皐月は護伯父のそばに近づいた。
「帰る前に神棚の掃除くらいしようかと思って」
「おお、偉い心がけだっぺ。風子もなあ……」
「でも風子おばさん、ここ苦手だって言ってたから」
「だからって本家のしきたりを粗末にする言い訳にはなんめ。あいつはああ見えて祭主としてここらを守ってかなきゃなんねえんだから」
耳慣れない言葉に、皐月は眉をひそめた。
「さいしゅ、って何?」
聞き返すと、護伯父はハッとしたように口ごもった。
「ううん、まあ、その、だな……」
少し考える素振りを見せてから、護伯父は諦めたように息をついた。
「あまり人に言うことじゃねえんだ」そう前置きして、近くの古く白茶けた椅子に腰掛けた。
「ここに神さんを祀っているように、本家の敷地や周りにはいくつかこうして神棚があっぺ? 人目にはつかねえけどな。本家にゃ、それを順繰りにめぐって、その年とれた米と山の水を供えて、祈りを捧げるならわしが昔からあってな。代々、その先代から指名を受けた人間がずっと引き継いできてんだ」
「じゃあ今は風子おばさんが引き継いだってこと?」
「そうだ。先代はばあさんだったんだ。その前は亡くなったじいさんだったけどな」
「親から子に受け継ぐわけじゃないんだ? どうやって決めてるの?」
「……皐月ちゃんみてえな都会の子にゃ、信じられんかもしらん」そう前置きして、護伯父は言葉を続けた。
「なんていえば伝わっかなあ……、見るって言えばいいか」
「見る?」
「そう、この土蔵で見るんだ、普通の人にゃ見えんもんをな」
ふと土蔵で見たそれを思い出した。「それは」もしかしてと言いかけて、護伯父は頭を振った。
「これ以上はオレからはなんも言えねえ。オレは見てねえがら。ただ見たからっちゅうて、おいそれと口にすることじゃねえしな」
護伯父が言う、普通の人に見えないものが、皐月が見たものと同じとは限らない。それでも同じような気もした。
「……こういうの、この辺の家は皆やってることなの?」
「さあなあ……。ただ古くからの家はやってると聞くけど、もう廃れてるとこもあんだ。ただうちの場合は、この辺でも規模が大きいらしくてな。まあこの辺の農家のまとめ役として機能してるせいかもしんねえけどな。ばあさん曰く、豊穣の祈願だけじゃねえ、悪いもんが入ってくるのを阻止する役割もあんだと。周りの家屋敷の守りも兼ねてるから、決しておろそかにするんじゃねえと」
小里が同じことを言っていたことを思い出した。
「悪いもの……?」
「それが何か聞いたんだけどな、教えてくれねかったなあ。分かる人間にゃ分かるんだと。分からなければそれは分からないままがいいんだと」
謎かけのような言葉だと思った。
でもそれはつまり、祖母も、そして小里もその悪いものを知っていたということだ。だからといって、その悪いものに狐面の男の子があたるとは思えなかった。むしろ悟伯父の方がよっぽどそれに近い。
「でも風子おばさん、いくら本家の近くに住んでるからって、毎日ここに来てそれするのはけっこう大変じゃない? おじさんじゃダメなの?」
「まあその辺はばあさんに俺も聞いたんだ。風子じゃ大変だべって。でも風子は見ちまったし、風子が一番そういうの向いてんだと。本人の希望とか関わりねえとこでな」
そう言うと護伯父は重そうに腰を上げた。
「風子にゃ気の毒だがな。詳しいことはこれからだっつう時にばあさんは逝っちまったから。まあご指名あっただけマシってことか」
伯父が神棚を見上げる。つられて皐月も見上げた。
お狐さんを供えることといい、祈りを欠かさないことといい、幼い頃なじんだはずのこの土地が急に見知らぬ場所のように遠ざかった。都会の新興住宅の多い街で育つと、いまだに祈りが生々しく息づいているのには少し戸惑う。彼らは、そのならわしに対して億劫がることはあっても、決してやめるという選択はしないにちがいない。
ふと屋敷の前に広がる田んぼを思い出した。
連綿と、受け継がれてきた営み。
その悠久さに、気後れしそうになる。でも護伯父も風子伯母も、そして白彦も、脈々とその流れの中に生きている。生き続けていく。
「ねえおじさん、キツネ……お狐さんをお供えするならわしも、今の話と関係するんだよね?」
探し物の続きを始めていたずんぐりとしたその背中が大きく反応した。
「……それ、誰から聞いた?」
「風子おばさん」
大きくため息をついて、護伯父は頭痛でもしているかのように顔をしかめながら体を起こした。
「あいつはまあぺらぺらと」
「違うの、私が気になって聞いただけだから」
「あんまりそれ、よそには言わんでくれな。このご時世、動物虐待で糾弾されかねねえべ」
「言わないよ……」
「しっかしよくよく、皐月ちゃんは縁あんだな。他の従兄弟らは知りもしねえべ」
護伯父は手にしていた紙の束から一枚抜き取った。
少し汚れた封筒だ。それを皐月に差し出しながら、言葉を続けた。
「まあお狐さんを供えてたのはじいさんが猟をしてた頃までな。お狐さんが、悪いもんと関係あったのかはそこまでは知らねえ。昔は仕事の一つだったべが、今はそんなことさすがにできねえしな。まあばあさんが逝っちまったからもう詳しいこと知る人もねえだろうしなあ」
護伯父はそこまでひと息に言うと、役目を終えたと言わんばかりに出口に向かった。慌ててその背中に声をかけた。
「あの、小里のおばさんなら何か知ってる?」
「小里さんが?」
護伯父が振り返った。
「ずっとおばあちゃんたちのそばで手伝ってきてくれた人なんでしょう?」
「どうだべ。小里さんはあくまで農業経営の片腕だかんな。多少は見聞きしてっがもしんねけど……なあ皐月ちゃん」
「はい」
「あんま深入りすんな。オレもそういうことは詳しくねえし、だからなんかあっても、かばってやれん。それに、人には人それぞれ、守るべき分っちゅうもんがある。それを先祖代々守ってきだがら、この本家もこうして安泰でこれたんだ。興味だけで首つっこむもんじゃねえべ」
厳しい顔つきで言われたことに、小さく「はい……」とうなだれた。皐月が落ちこんだのを見てとった護伯父は、付け加えたように手を振った。
「いや、皐月ちゃんが悪いわけじゃねえんだ。だけど、他の子らはこういうことはなんも知らん。オレもまだ息子にゃなんも言ってねえし、あれも知らんべ。だからこそ大事にしてほしいだけだ」
「うん、分かってる……。ねえ、おじさん、これ」
最初に渡された封筒に目をやった。
「ばあさんから。孫たちにはそれぞれ渡しといてくれってだいぶ前に頼まれてたの、さっき思い出してな。皆まだ帰ってなきゃいいが」
「なら急がないと。もう帰り支度はじめてたから」
「おお、そりゃマズイな。皐月ちゃんはいつ東京に帰んのけ?」
「たぶん明日の朝早くだと思う」
「そうけ。時間あったらでいいかんな、神棚綺麗にすんの大変だべ」
そう言って裏庭を出ていく伯父を見送りながら、土蔵の梁を伝って電線が引かれた灯りのぼんやりとした光の下に皐月はひとり取り残された。
昔ながらの小さな傘の下で、本当にお情け程度の裸電球が小さな音を立てた。蔵の中を埋め尽くす家財は埃の中で沈黙を続け、神棚は薄汚れたままだ。
ふと、その下の古いヒノキの一枚板の台が目に入った。黒々としたシミが天板に広がっている。それは嫌が応にも不吉な想像をかきたてた。
代々、狐の血を吸ってきたお供え用の台なのかもしれない。
一瞬よぎった不気味な想像をすぐに打ち消して、大きく息を吸うと皐月は「よし」という掛け声とともに腕まくりをした。土蔵の神棚にのっていた神具や器をいったん取り除いてから、埃をはたきで落とし、濡れ雑巾でさっと棚の汚れを拭う。それから乾いたご飯は捨て、汚れた水の線が残ったお供えの陶器は丁寧に洗った。榊立ての榊は抜いて、蜘蛛の巣があれば取り去り、一枚一枚の葉に積もった埃をふきとった。そうして掃除に没頭していると、神棚の陶器は甲斐あって元の白さを取り戻し、神棚全体がすっきりしたようだった。
ひと段落させた皐月は、さっき護伯父がかけていた椅子に腰掛け、祖母の手紙をとりだした。
シンプルで変哲もない手紙は、「皐月へ」と少し達筆な字体で始まっていた。