狐の声がきこえる
自覚

誰かがひっそり泣いている。そう思った時、まぶたの裏が明るくなって、目を開けた。何十畳もの青い畳が広がっているそこは、本家の座敷だった。
外から入ってくる風が時おり、ちりん、と風鈴の音を鳴らした。
誰かが仰いでいたらしい朝顔模様の団扇が畳の上に放り出されていて、それを拾い上げようとして、右手は空しく宙をかいた。なぜすりぬけて団扇を掴めないのか分からぬまま、皐月は仕方なく顔を上げた。
いつのまにか座敷の中央に薄い夏用の布団が敷かれ、そこに誰かが寝かされているようだった。
近づくと、そこにはまだ四歳くらいの幼い皐月が、かすかに汗ばんだ額に髪の毛が張りつかせて、無防備に手足を放り出して熟睡していた。
うっすらとつきまとっていた違和感は、これだ。
皐月が、その皐月を見下ろしている。
いつかあった出来事なのか、それとも想像の世界なのか、または今の皐月が夢を見ているのか。
自分の状態を把握できないまま視線を彷徨わせた時、人が話している気配を感じて、ふと障子の向こうに気を向けた。
「嫌です」
「嫌です、じゃねえべ。あんたさんはこっちにいちゃなんねえ。それっくらい分かっぺ?」
「でも……僕は、皐月ちゃんといたい」
すすりあげる声を聞いて、腑に落ちる。あの狐面の男の子の声だ。ずっと続いていた泣き声は、白彦だ。そしてその泣き声にかぶるのは、祖母の声だった。
「絶対悪さはしないと約束します。あなたの言いつけも守ります。だから」
「許すも許さないも、人とお狐さんが住む世界は違う。まして人に懸想なんてしちゃあ、お仲間が許さねえべ?」
「同胞は、僕がなんとかします。でも皐月ちゃんのそばにいるには、あなたの許しが必要なんだ。ほんのひと時でもいい、あの子を見守ることができさえすればいい」
「……皐月は、本家に住んでる子じゃねえ。会えるのだって年に数回、それも確実とは言えん。それでも?」
「いい。待ちます。僕はあの子に助けてもらった。だから、ただあの子にとって、いつだってここは安心して眠れる、僕が守ってあげられる場所にしたいんです」
「……まいったねえ、あんたさんが性悪なら断ってやったんだが……」
いつのまにか泣き声はやんで、息をつめる気配がした。
「じいさまがいたら無理だっぺが、しょうがねえ……」
「では!」
「約束するんだ。私の身内に害なすことがあれば、山ん神さんにそれ相応の因果を含めてもらうべ。それから皐月をあんたさんの想いに巻きこまないでおくれ。あの子は普通に生きる人間だがら」
「……分かってます。言うわけ……言えるわけないじゃないか」
「あんたさんが憎くて言うんじゃない。そちらさんにはそちらさんの、人には人の理がある。それを破ったら、あんたさんだけじゃなく、皐月もただじゃすまん。知らぬでは、済まされねえべ」
「……それも分かってます。へまはしない」
「……あんたさんにとっちゃ苦しく辛い道だろうよ。自分の首を絞めるだけの」
「それでも……あの子を守れるなら」
「……そうけ。ならもうなんも言わねえ。白彦、あんたが本家に出入りすんのを許そう」
幼かった皐月は、この会話を知ることもなく深い眠りの中にいる。でも今ここにいる自分には、すべて聞こえていた。白彦がやはり普通の人間ではないことも、この時の二人がとても大切な何かを約束したのだということも。
それがなんなのか考えようとした時、座敷の映像がぶれるようにして消え失せた。
真っ暗闇が訪れ、無音が辺りを支配していた。自分が身じろぎして服がこすれる音さえも、吸い込まれたかのように聞こえない。
手をのばして探る勇気も、その場から一歩踏み出す度胸もなく、皐月は硬直したまま、現実の世界に目覚めるのを待った。ひたすらに待って、聴覚も嗅覚も視覚も触覚も、自分のものではないように遠ざかっていく気がした。
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