狐の声がきこえる
3
「お姉ちゃん!! お姉ちゃん、大丈夫!?」
聞き慣れた声が耳元で繰り返され、目を開けた。
「よがったよがった! ほんと一時はどうなっぺかと」
視界に依舞と母、護伯父や風子伯母の顔が円陣を組んでいるかのように並んでいた。ここはあの世界でもなく土蔵でもなかった。見慣れた天井や建具が、皐月が今いるところが本家の座敷だと示していた。
一様に安堵の表情が浮かぶ中、母だけが曇った顔をしている。言葉にしなくても伝わる、非難めいた視線を受け止めきれず、依舞を、それから風子伯母へと視線を流した。
風子伯母が祖母を思い出させる慈しみの目で皐月を見つめた。
「白彦くんがね、助けてくれたのよ」
「……きよくんが?」
体を起こすと、体にかけられていた薄い毛布がずり落ちた。泥で汚れた服が露わになる。そのひどさに動揺して言葉を失った。
「いちおう顔とか腕とか、出てるところは拭いたんだけど」
依舞の手には茶色く汚れた濡れタオルが握られていた。
「皐月ちゃんの姿が見えないことに白彦くんが一番に気づいて、で、護おじさんの話から土蔵に当たりをつけて、駆けつけたのよ。でもなかなか扉が開かなくてね、力で押し破って、中に倒れていた皐月ちゃんを見つけたの。もーう白彦くんがね、王子様みたいだったわよ」
どこかうっとりした様子で語る風子伯母の様子に、護伯父がしかめ面で風子伯母を睨んだ。
「んなこと言ってる場合じゃねえべ。おめえがもちっと土蔵に気ぃ配ってりゃあ……。皐月ちゃん、体、どっかおかしいとこねえか?」
風子伯母は軽く肩をすくめて、護伯父に分からないように小さく舌を出してみせた。こういう仕草は、母より年上なのに、少女のように見えた。でもそれだけで、気持ちが少し和んだ。
「大丈夫だと思う、痛みとか、ないみたい……」
地下への階段を滑り落ちて、全身を打ったことははっきり覚えている。それからの時間があまりにも現実離れしていて、落ちた時の衝撃も何もかも、今聞かれるまで吹っ飛んでいた。
それ以前に、不思議なことにどこも痛みを感じていなかった。もしかしたら白彦が助けてくれたからかもしれないという思いがよぎった。
「ねえお姉ちゃん、なんでそんなに泥だらけになってたの?」
黙っていた依舞が首を傾げた。
「え? だって、私、地下に倒れてたでしょう?」
「え? 地下?」
護伯父たちが顔を見合わせた。
「え?」
今度は皐月が首を傾げた。
「土蔵に地下、ある……よね?」
「土蔵にけ?」
「私、そこに滑り落ちて」
「なんだって?」
護伯父が戸惑ったように頭を振った。それを代弁するように訝しげな依舞が口を開いた。
「お姉ちゃん、蔵の中に倒れてはいたけど、普通に床の上だったよ。地下なんてなかった」
戸惑って、自分の汚れた服の袖に視線を落とした。どういうことか分からないけれど、少なくとも護伯父たちが嘘をつく理由はないし、地下を見ていないということも真実に違いない。自分が泥だらけだったことを除いて、不審な点はない。でもきっと、地下はなかったのだ。
「……閉じこめられて、扉開かないし電話通じないしでパニックになってたから……」
言い訳のようにつぶやくと、まだ納得できていなそうな依舞を除いて、護伯父と風子伯母は安心した表情を見せた。
「本当になんともなくてよかったべ」
「でも一度、病院かどっかで検査してもらった方がいいと思うわ」
「うん……。私のこと、きよくんが助けてくれたんだよね?」
「うん、扉をこじ開けて、中に飛び込んでった。……すごかったよ、白彦さん。すごく青ざめてて、その気迫にのまれて誰も一瞬、ついてけなかったから」
「それで、きよくんは?」
「それが」冷静に教えてくれていた依舞が言い淀んだ。
「お姉ちゃんをこの座敷まで運んでくれて、しばらくはそばについてくれてたんだけど、いつのまにかいなくなってて……。白彦さん、だいぶ疲れてたというか、ものすごく体がきつそうにしてて」
「悟がフラフラしてる分、白彦がいろいろ面倒引き受けてっからなあ。少しは休めって声かけたんだが」
沈黙が落ちた時、立ち上がる気配がした。それまで一言も口を挟まなかった母だ。
「その様子なら、明日の朝は予定通り帰れそうね。大事なくてよかったわ」
きつい物言いに、思わず母を見上げた。
「泉水、おめえ気絶してた娘になんつう言い方してんだ。労りの言葉かけてやんのが母親ってもんだべ?」
「兄さん」護伯父の険しい言葉に、風子伯母が慌ててとめた。
「この大事な時に熱を出すわ、蔵に閉じ込められて周りを振り回すわ、もう30歳に手が届こうって年齢の大人がすることじゃないでしょ。情けなくて仕方ないわよ」
吐き捨てるように言い、母は憮然としている護伯父や、おろおろしている風子伯母に目もくれず座敷を出ていった。
「なんだありゃ。いつから泉水はあんな母親になったんだ」
憤慨する護伯父を風子伯母がなだめている。すでにこんな場に慣れた依舞だけが、どこか心配と不安の入り混じった目で皐月を見た。
「大丈夫だよ、ちゃんと謝っとくから」
依舞だけに聞こえるように囁くと、依舞は少し安堵したように曖昧に頷いた。でもその目は、苛立ちが混じっていた。母と自分の板挟みで、一番複雑な立場なのは依舞だった。
「ママ……、ああ言ってるけど、さっきまですごく心配してたから、だから……」
「うん、分かってる」
母が、皐月に棘のある態度をとるようになったのは、皐月のせいだ。
やり直せるなら、と何度思ってきたか。
でも時計の針は戻らない。こぼれた水は、もう還らないのだから。
聞き慣れた声が耳元で繰り返され、目を開けた。
「よがったよがった! ほんと一時はどうなっぺかと」
視界に依舞と母、護伯父や風子伯母の顔が円陣を組んでいるかのように並んでいた。ここはあの世界でもなく土蔵でもなかった。見慣れた天井や建具が、皐月が今いるところが本家の座敷だと示していた。
一様に安堵の表情が浮かぶ中、母だけが曇った顔をしている。言葉にしなくても伝わる、非難めいた視線を受け止めきれず、依舞を、それから風子伯母へと視線を流した。
風子伯母が祖母を思い出させる慈しみの目で皐月を見つめた。
「白彦くんがね、助けてくれたのよ」
「……きよくんが?」
体を起こすと、体にかけられていた薄い毛布がずり落ちた。泥で汚れた服が露わになる。そのひどさに動揺して言葉を失った。
「いちおう顔とか腕とか、出てるところは拭いたんだけど」
依舞の手には茶色く汚れた濡れタオルが握られていた。
「皐月ちゃんの姿が見えないことに白彦くんが一番に気づいて、で、護おじさんの話から土蔵に当たりをつけて、駆けつけたのよ。でもなかなか扉が開かなくてね、力で押し破って、中に倒れていた皐月ちゃんを見つけたの。もーう白彦くんがね、王子様みたいだったわよ」
どこかうっとりした様子で語る風子伯母の様子に、護伯父がしかめ面で風子伯母を睨んだ。
「んなこと言ってる場合じゃねえべ。おめえがもちっと土蔵に気ぃ配ってりゃあ……。皐月ちゃん、体、どっかおかしいとこねえか?」
風子伯母は軽く肩をすくめて、護伯父に分からないように小さく舌を出してみせた。こういう仕草は、母より年上なのに、少女のように見えた。でもそれだけで、気持ちが少し和んだ。
「大丈夫だと思う、痛みとか、ないみたい……」
地下への階段を滑り落ちて、全身を打ったことははっきり覚えている。それからの時間があまりにも現実離れしていて、落ちた時の衝撃も何もかも、今聞かれるまで吹っ飛んでいた。
それ以前に、不思議なことにどこも痛みを感じていなかった。もしかしたら白彦が助けてくれたからかもしれないという思いがよぎった。
「ねえお姉ちゃん、なんでそんなに泥だらけになってたの?」
黙っていた依舞が首を傾げた。
「え? だって、私、地下に倒れてたでしょう?」
「え? 地下?」
護伯父たちが顔を見合わせた。
「え?」
今度は皐月が首を傾げた。
「土蔵に地下、ある……よね?」
「土蔵にけ?」
「私、そこに滑り落ちて」
「なんだって?」
護伯父が戸惑ったように頭を振った。それを代弁するように訝しげな依舞が口を開いた。
「お姉ちゃん、蔵の中に倒れてはいたけど、普通に床の上だったよ。地下なんてなかった」
戸惑って、自分の汚れた服の袖に視線を落とした。どういうことか分からないけれど、少なくとも護伯父たちが嘘をつく理由はないし、地下を見ていないということも真実に違いない。自分が泥だらけだったことを除いて、不審な点はない。でもきっと、地下はなかったのだ。
「……閉じこめられて、扉開かないし電話通じないしでパニックになってたから……」
言い訳のようにつぶやくと、まだ納得できていなそうな依舞を除いて、護伯父と風子伯母は安心した表情を見せた。
「本当になんともなくてよかったべ」
「でも一度、病院かどっかで検査してもらった方がいいと思うわ」
「うん……。私のこと、きよくんが助けてくれたんだよね?」
「うん、扉をこじ開けて、中に飛び込んでった。……すごかったよ、白彦さん。すごく青ざめてて、その気迫にのまれて誰も一瞬、ついてけなかったから」
「それで、きよくんは?」
「それが」冷静に教えてくれていた依舞が言い淀んだ。
「お姉ちゃんをこの座敷まで運んでくれて、しばらくはそばについてくれてたんだけど、いつのまにかいなくなってて……。白彦さん、だいぶ疲れてたというか、ものすごく体がきつそうにしてて」
「悟がフラフラしてる分、白彦がいろいろ面倒引き受けてっからなあ。少しは休めって声かけたんだが」
沈黙が落ちた時、立ち上がる気配がした。それまで一言も口を挟まなかった母だ。
「その様子なら、明日の朝は予定通り帰れそうね。大事なくてよかったわ」
きつい物言いに、思わず母を見上げた。
「泉水、おめえ気絶してた娘になんつう言い方してんだ。労りの言葉かけてやんのが母親ってもんだべ?」
「兄さん」護伯父の険しい言葉に、風子伯母が慌ててとめた。
「この大事な時に熱を出すわ、蔵に閉じ込められて周りを振り回すわ、もう30歳に手が届こうって年齢の大人がすることじゃないでしょ。情けなくて仕方ないわよ」
吐き捨てるように言い、母は憮然としている護伯父や、おろおろしている風子伯母に目もくれず座敷を出ていった。
「なんだありゃ。いつから泉水はあんな母親になったんだ」
憤慨する護伯父を風子伯母がなだめている。すでにこんな場に慣れた依舞だけが、どこか心配と不安の入り混じった目で皐月を見た。
「大丈夫だよ、ちゃんと謝っとくから」
依舞だけに聞こえるように囁くと、依舞は少し安堵したように曖昧に頷いた。でもその目は、苛立ちが混じっていた。母と自分の板挟みで、一番複雑な立場なのは依舞だった。
「ママ……、ああ言ってるけど、さっきまですごく心配してたから、だから……」
「うん、分かってる」
母が、皐月に棘のある態度をとるようになったのは、皐月のせいだ。
やり直せるなら、と何度思ってきたか。
でも時計の針は戻らない。こぼれた水は、もう還らないのだから。