狐の声がきこえる
「お母さん」
後部座席に体をねじって向けた。
「私が高校二年の時、お母さんの再婚、ダメになったでしょう? あれ、私のせいだよね。私が最後まであの人を拒否していたから」
母がすでに交際を始めているという男性に会ったのは、高校二年生の夏だった。職場の取引先の人で、いずれお互いに再婚も視野にいれていると紹介された。
父とは違い、いつでも冗談を言って笑わせてくれるような人だった。
依舞はすぐになじんだけれど、それまでほぼ家事を一手に引き受け、いろんなことを諦めてきた皐月には、どうしても素直に応じきれなかった。
母、妹、皐月。その三人で支え合ってきた絆は固くて、そこによその人が入りこむ隙間なんてない。そう思っていたのに、三人の小さな我が家が足元から崩れていくような気がして、裏切られた気分だった。
母の交際相手は、何も悪くない。むしろ頑なになじもうとしない皐月に気を遣って、一生懸命心を開いてもらおうと努力するどこまでもいい人だった。
でもあの時の皐月にとっては、ただテリトリーを侵す闖入者にしか見えなかったのだ。なだめたりすかしたりする母や彼に、皐月は一貫して無関心を装う態度しかとれなかった。
母も一人の女で、本当にあの人を愛していたのだと分かった時には遅すぎた。
「本当にごめんなさい。どんなに謝っても謝りきれないのは分かってる。あの時、再婚に頷いていればいろいろなことが変わっていたと思う」
やがてその人が家に来なくなり、母の皐月への当たりがきつくなったのもその頃からだ。
シングルマザーの家庭ゆえに、母は人一倍いろんなことに気を遣ってきていた。母が皐月に厳しいのもそれがあったからだ。皐月も母の意を汲み取って、つとめて品行方正な優等生で、常に母の期待に応えようとしてきた。
でもそれは徐々に、皐月自身さえ知らないうちに、母との関係に歪みを生んでいた。そしてどうしても埋められない溝が、決定的に生まれたのがあの時だった。
それまで必死に母の顔しか見てこなかった皐月には、期待に応えること以外で母との溝を浅くする術が分からなかった。皐月が高校でもトップレベルの成績や周りからの評判を得るほど、母との関係はうまくいっているように見えて、内実は醒めきっていた。
どんなに良い成績でもどんなに生徒会で活動しても、母が皐月を認めることはほぼなかった。
それでも表面上は何事もなく過ぎ、やがて受験期に突入し、皐月は逃げ込むように勉強に没頭した。推薦をとって志望大学にすんなり合格しても、母との関係は変わらなかった。奨学金とバイトで、極力迷惑をかけないようにしたのがまた、母との距離に拍車をかけた。いつのまにか皐月と母の関係は、高校生の頃から時を止めたように凍りついてしまった。
「後悔した。私さえあの時頷いていれば、お母さんはまた家庭の主婦として穏やかな日々を送れたかもしれない……」
母は目をつむったまま微動だにしない。今さら蒸し返されて、戸惑っているのか、それとも怒りが湧いてきているのか、表情からは窺えない。
「ごめんなさい。意固地になりすぎて、居場所を失うんじゃないかとか、変わってしまう怖さとか、そういうのに囚われて……、誰も、私のことを悪く扱うなんてないはずで、秋田さんもお母さんもそう伝えてきてくれていたはずなのに」
相手を想い、相手によかれと思って言ったり行動したりしても、その相手がそうと気づかないこともある。それは何が悪いとかではなくて、互いの性格や特性、タイミングや言葉の選び方、いろんなものが重なって、ただその時、そうなってしまっただけだ。そしてそれに気づかないまま、ボタンを掛け違えてきてしまった。
「きよくんを好きになって、きよくんを大切だと思うほどに、自分の幸せや相手の幸せを考える。だからこそ、あの時のお母さんの気持ちを受けとれなかったことが後悔されて……。お母さんの幸せと私の幸せは重なっていたはずなのに、いつのまにか見えなくなってた……お母さんの幸せを思えば一歩を踏み出せたはずなのに」
車窓の外には、朝の光に溢れる都会がうつっている。無数の人たちが、自分の意志とは無関係のように、白い白線で描かれた歩道や交差点を揃ったようにゆきすぎていく。繰り返されてきた、機械的な光景。でもそこに生きることを選んだ人たちの想いは、無数にこの都会で入口と出口を行ったり来たりしながら忙しなく変化して有機的に動き続ける。
そこでは誰しもが、幸せをつかむために、歩く。目的が分かっている人もいるだろう、見つからなくて迷っている人もいるだろう。もしかしたら、その繰り返される波にもまれて、自身をすり減らしてしまうかもしれない。置き去りにして見えなくなってしまうかもしれない。でもそこにある自分も、そこにある状況も、自分自身が幸せのために選んできた結果で、そうして選んできた道は、どんな結末を迎えようとも次に繋がる確かなものとして残る。
だから皐月は、その波間に漂いながらも胸の奥で光る想いを大事なものとして抱きしめて歩く。
揺るぎなく、守っていくために。
林立する新宿の高層ビルを見上げた。
会社は、もうすぐそこだ。
「依舞、その辺で降ろしてもらえる? ここから歩いた方が早いから」
「……お姉ちゃん」
少し泣きそうな依舞を優しく見つめる。いつも皐月と母の間で板挟みになってきた六歳下のかわいい妹。
「ごめんね、依舞」
路肩に止められた車から降り、トランクからスーツケースを出そうとして、運転席から降りてきた依舞が脇から支えた。
「ママのことは大丈夫だから。……だから、お姉ちゃんはお姉ちゃんの思うことを貫きなよ」
「依舞」
「お姉ちゃんが後悔してきたのも、ずっと我慢してきたのも、知ってるから。ママや私のために、これ以上自分を犠牲にすることない。それに、再婚がダメになったの、お姉ちゃんのせいだけじゃない。それはママだって分かってるはずだもん」
「……ありがとう、依舞」
「白彦さん、ちゃんとつかまえて」
そう言って、依舞が皐月の手に小さな紙を滑り込ませた。開くと走り書きされた固定電話番号が載っている。依舞のまるみを帯びた数字ではない。
「白彦さんの、唯一とれる連絡先。お姉ちゃんが連絡とりたい時にとれるのが欲しいって言ったらくれたの。留守がちだからあまり当てにならないらしいけど」
いつのまにこんなものを手に入れていたのかと苦笑するつもりが、なぜか目頭の縁が熱を帯びて慌ててしまう。
「ありがとう」
「こんなのなんでもないよ。こんなことしかできなくて、ごめん……」
「依舞は十分やってくれてる。むしろ謝るのは私の方。いつも、お母さんとの間で辛い思いさせてごめんね」
依舞が激しく頭を振った。
「ありがと」そう言って、軽く依舞の手を握って離した。依舞は少し名残惜しそうな顔で、ちらりと車の方を見た。
「もう行くね。遅刻しちゃうから」
「うん……初七日もすぐだから、また連絡する……。白彦さんによろしく」
依舞が小さく手を振って運転席に戻った。その背中を見送りながら、車の後部座席を見つめた。母の小さな頭が座席の隙間から見えている。皐月の方に振り返りもしない。
今は母との関係が改善できなくても、一番大事なものは、この胸の奥にある。それを思えば、どんなことでも乗り越えていける気がした。
視界の中では、依舞が運転する車がゆっくり動き出した。その車体が朝の色を鈍く反射させながらあっという間に都会の喧噪にまぎれていく。見えなくなるまで見送り、皐月はしっかり前を向くと、会社のある方角へ身を翻した。
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