狐の声がきこえる

身体はひどく疲れているのに、頭は冴え渡っていた。ベッドの上で何度目かの寝返りを打ち、目を開けた。見慣れた自分の部屋の天井を見つめ、何度となく反芻した想いを再確認する。
あの地に根を下ろし、できることなら、白彦と一緒に同じものを見て笑い、泣き、怒り、そうして同じ場所で同じ時間を重ねていきたい。
帰ってきてと望んだ小さな白彦の言葉通り、帰るのだ。誰が決めたのでもなく、皐月自身の選択として、住み慣れた東京を離れようと決めていた。皐月にはとても大きな決断だ。仕事のことも、築いてきた地元の友人たちのことも、この町での生活のことも、すべてが変わるだろう。そこに不安がないわけではない。でも、皐月の心が、幸せへの道しるべとしてそう示していた。
スマホをとりあげると、時刻は午前二時を指している。
眠らないと明日に差し障りがあると思っても、まだ目は冴えている。
気持ちは決まったけれど、一つ気がかりなのは、小さな白彦の姿だった。まるで何かと戦ったかのように傷だらけの姿は、そのまま、会えていない白彦の姿に重なった。
今朝依舞からもらった白彦の家の電話番号には、日中すでにかけていた。留守番電話に繋がってしまい、結局白彦本人に繋がることはなかった。電話番号をスマホの画面に呼び出して、そのまま額におし当てた。
白彦は、戻ると約束してくれた。会いたいと願えば、会いにくると言っていた。
何も心配することはない。
そう分かっているのに、体の疲れに引きずられるようにして不安が足元に押し寄せているような気がした。白彦を信じていないわけではない。自分の心が弱いだけだ。
「……っもう!」
気持ちを一新させるためにキッチンにカフェインレスのホットティーを飲みに体を起こしてベッドから降りた。
その瞬間、耳元をひゅ、と何かが通り過ぎた気がした。顔をあげたとたん、間抜けな声をつい漏らした。
足元に、地上が広がっている。
「うそ」
スマホをもったまま、皐月は冷たい風に体をさらして、マンションの外の空に浮いていた。横の方にマンションの自分の部屋があり、カーテン越しに、スマホを握りしめたまま横になっている自分の姿が見えた。
ベッドに皐月が寝ている。それを自分が見ている。
「なに、これ……」
幼い皐月を、大人になった自分が見ていたあの時のようだった。現実感の希薄な、その奇妙さはどこか胃の腑を落ち着かなくさせた。
まだ繁華街は起きていて、地平までところどころ白や赤や黄の点灯が星々のように瞬いている。空には、薄く雲がたなびき、その灰青色の向こうに群青の闇が広がる。本物の星はちらちらと瞬くけれど、月はない。
皐月を巻くように、風が耳元で音を立てた。それに混じって、呼ばれた気がした。目を細めて、地平のかなたを見透かすように見つめた。
奥の、もっと奥の、山の影さえ見えない遥か向こう。
ひゅうううっと、風が吹いてくる。
あの田んぼを渡る風に似た匂いを運んでくる。
耳を澄ます。
冷たい風に乗って、篠笛の音が聞こえてくる。
あの、狐の嫁入りの。
呼んでいる。
その方角に体を傾けると、自然と体が前に進んだ。
夢だからなのか、自分の思うままに夜空を滑るように進んだ。上空数百メートルも上でも不思議と怖くない。ただ気持ちが急いて、その気持ちに比例するように周りの景色は秒速で過ぎ、地上の原色が無数の彗星の尾を引いて流れていった。やがてその彗星もほとんど見えなくなり、肌寒いけれど凍えるほどでもなく、気温がわずかに低くなった。
山が多くなり、黒い頂が折り重なるように増えてくると、笛の音もはっきりと耳に届くようになっていた。
山々に囲まれて、うっすら明るく光っているところがある。
そこに目を向けた時、強い視線を感じた。
「よく来た」
しゃがれた太い声が響いて、皐月の体が強く地上に引っ張られた。バランスを崩して、落ちる、と恐怖に体がこわばった直後、目の前に苔むした石段が現れた。
いつのまにか地面に倒れていた。まただ、と思いながら、頭も体もなんともないのは、やはり夢だからだろうと言い聞かせた。脈打つ心臓を宥めながら体を起こして、辺りを見回した。
藪や笹がなかば崩れつつある石段の両脇から鬱蒼とせり出し、重たげな枝葉で空を覆い尽くさんばかりに広げた大木が黒々と威圧するように天に伸びている。その向こうには、都会では決して見られない、降るほどの星々が強く瞬いている。でも不思議と辺りはほの明るい。あれだけ聞こえていた笛の音はぴたりと止んで、風が木々を揺らす音しか落ちてこない。
皐月は自分がどこにいるのか、気づいた。
古宇里山の、あの荒れ果てた社だ。
なぜここにいるのか分からない。でも進まなくてはいけない気がした。この先の何かが、皐月を引き寄せる。
立ち上がって苔で滑らないように足をかけ、石段を慎重に登った。
元は朱塗りだったらしい鳥居が、みすぼらしい姿をさらして立っている。
その先にも、鳥居があった。その先にも、その先にも、その先にも。
幾重にも参道を包むようにつながっていく鳥居。礎石の部分も崩れ、かろうじて持ちこたえている鳥居には、もう読み取ることのできない名前が刻まれている。
はるか昔から続く、集落で暮らす者の祈りの形。奉納鳥居だ。どれだけ昔から奉納されてきたのか、参道の範囲だけでは建ちきらず、ゆるやかに参道に沿うようにして鳥居の道が何本かできている。
中央の参道に続く鳥居の下を、異界に向かうような心地で皐月は歩んだ。
あまりにも果てがないように連なる鳥居に、自分の来た道と行く道が歪むように目眩を覚えた。でも立ち止まったら抜け出せず、この夢からも目覚められない気がして、必死で足を動かした。
ようやく出口のように淡い光が見えて、鳥居の群れを抜けた。ホッと息をつく間もなく、そこには、磨耗して原型は留めていないけれど、巨大な狛犬が参道を守護するように威圧して並んでいた。いや狛犬ではなく、狛狐だ。しかも太く大きな尾が、何本かに裂けている独特の造形をしている。その先に雛壇状に石垣が築かれ、その上に質素な拝殿が建っていた。神社の建築様式は判断できない。集会所と間違えてしまいそうな、あまりに簡素な姿だ。
賽銭箱と色褪せた五色の布を垂らした鈴を見つけて、皐月は手を合わせようと拝殿の階段に足をかけた時、ふいに拝殿の扉が開いた。
「よくぞ、参った」
そこには見知った顔が立っていた。
「……悟おじさん……!」
和服の袖に手をいれ、唇の端を歪めて皐月を見下ろしている。どこか不遜な雰囲気からはひどく気味の悪い禍々しさが滲み出ていて、何がというわけではなく、本能的に一歩後ずさった。
ぎしりと、拝殿の階段が音を立てる。
夢なのにやけにリアルだ。
「あの、おじさん……」
「そこは寒かろう。社の中へ参られよ」
いつもの訛りもない。誘うように丁寧でも、その口調は恐ろしいほどに尊大だった。
悟伯父は目を細めて、手を差し伸べた。白彦と同じ、しなやかに長い指は、明らかに農業に携わる者の手ではない。
「白彦を探しておるのであろう?」
さらに悟伯父の目が弓のように細くなった。その奥にある瞳は、笑ってはいない。むしろ獰猛に獲物を見定め、狙うような鋭さが宿る。
「白彦ならこの奥にいる」
そう言われても、どこか信じきれないうすら寒さが漂う。
「さあ。さあさあ」
悟伯父が一歩前に出た。ほんの一歩に過ぎないのに、伯父の威圧感が一気に増した。今目の前にしている姿よりもはるかに大きく見えて、皐月はまた一歩後ずさった。
白彦がいるという拝殿の奥は暗く、何も見えない。
「何をためらう?」
ためらう理由に根拠はない。でも、さっきから頭の隅で警鐘が鳴り響いている。その手をとってはいけない、と。
「どうしたのだ、白彦が待ちくたびれている」
奥にいるなら、白彦はなぜ、姿を見せてくれないのだろう。
皐月が知る白彦が、そこにいたなら、きっとそうする。
泣き出しそうになるのをこらえた。
目の前の伯父が、怖い。
皐月がまた一歩さらに退くと、悟伯父は「ききわけのない」とゆるく頭を振った。そして次に顔を上げた瞬間、カッと目を見開いてその場から跳躍した。夜叉のような形相に豹変した悟伯父が、皐月との間にある賽銭箱と階段を軽々と飛び越え。
声を上げる間もなかった。
喉笛を片手でわし掴まれ、皐月の呼吸が一瞬にしてつまった。
「ぉ、じ……」顔がはち切れるようなうっ血を感じて、痛みと苦しさに相手の腕を引き剥がそうと爪を立てた。頭の中はパニックと恐怖に乱れたまま、意識が朦朧としていく。
「お前に否やはないのだよ」
そう吐き捨て、悟伯父は、いや伯父の皮をかぶった何者かは皐月を突き放した。勢いのまま地面に転がり、大きく咳き込んだ。意志とは関係なく涙がこぼれ、急に解放された喉の奥が空気を求めてか細く音を立てた。必死で酸素を求めて喘ぐ皐月の上に影が落ちた。見上げると、金色の虹彩に輝く瞳をした悟伯父だった者が、大きく口を裂いて笑いながら見下ろしていた。
「白彦のためと耐えておったが……むしろ、始めからこうすべきだった。お前の魂魄さえこの世にのうなれば、白彦も元に戻ろう」
悲鳴も出なければ、指先ひとつさえも動かせなかった。
その口にはぞろりと人間のではない尖った牙が並び、その隙間からは一筋、よだれがこぼれ落ちた。伸びてくる手には、皮膚など容易に切り裂けそうな爪が生えている。
刻々と、伯父だった者に、狐の耳が生え、鼻面が伸び、ヒゲがのびていく。それはまるでスローでコマ送りされる映画を見ているようだった。夢だからという言い訳がまだ頭のどこかに残っていたからかもしれない。死への実感なんてわかず、皐月はただ他人事のように異形の者の変化する姿を茫然と見上げていた。
あの、狐の嫁入りの列に並んでいた者だった。
伯父の片鱗を残しつつも人ではない存在が、皐月の顎をわし掴んで、大きな口を開けた。頬に食い込んだ爪が、皮膚を深く傷つけたのが分かった。生温かいものが、頬を伝っている。その血の匂いが、目の前の異形の者の笑みを深くし、涎をさらにあふれさせた。
白彦に、会えぬまま、自分は、喰われる、のか。
恐怖が背筋を貫いた。喰われることより、白彦に会えないことへの恐怖。
「きよくん!!!」
絶叫した時。
「やめろ!」
激しい怒号が降ってきて、体に衝撃を受けた。直後、鈍くぶつかる音と木が大きく裂ける音が響いた。耳をつんざく轟音に訳が分からぬまま目を開けると、すぐ目の前にカッターシャツのすらりとした背中があった。
その向こうで拝殿の階段が割れ、埃や木屑が煙のように立ち昇っている。
「きよくん!」
「呼ぶの、遅い」
怒ったように、白彦が背中を向けたまま言った。
「っだ、だって……っ!」
安堵のあまり、涙がこぼれそうになる。
「……嘘だよ、ごめん」
振り向いた白彦が泣きそうな顔の皐月を見て、それから血が流れる頬に、今度は皐月が泣きそうな顔をした。
「……傷、……痛い思いさせた」
不意に白彦が顔を寄せて、驚く間もなく、皐月の頬の傷を素早く舐めた。一瞬の出来事に、声を失って硬直している皐月に、白彦は少し照れたように早口で囁いた。
「舐めると治りが早いから」
その時、拝殿が地響きのような音とともに破裂した。顔を緊張にさっと強張らせて、白彦は素早く皐月をその破片からかばった。木が裂けて粉塵とともに舞い上がる中、拝殿に向かって身構える。無惨に壊れた拝殿の瓦礫の中から、人影が揺らぐようにして立ち上がった。白彦の背が緊張に張りつめている。
「彼女の魂魄が欲しいなら、僕が相手になる」
「よかろう」
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