狐の声がきこえる
低く唸るような声が地面を伝わるようにして届いた。その直後、目の前にいたはずの白彦の背中がかき消え、再び轟音が背後から響いた。振り返ると、並ぶ赤い鳥居がドミノのようになぎ倒され、その奥で白彦が片膝をついていた。
「きよくん!」
「人の姿では不便であろうに。なぜ戻らぬ」
伯父だった異形の狐が白彦の方に歩いていく。
「なにか、それともここまできて、いまさらこの娘に正体がバレるのに臆したか」
異形の狐が手をあげて振り下ろした。白彦の周囲の鳥居が雷でも落ちたかのように激しい音をたてて裂けた。
「黙れ」
立ちこめる土埃と粉塵の中で白彦がゆらりと立ち上がった。
「女々しいのう……。希代の力を蓄え、果ては数千年も生きられようというその命を、たかが小娘ひとりのためにむざむざ捨てようとは」
また異形の狐が手を振り下ろした。鳥居もその周りの木々も木っ端みじんに吹き飛び、粉塵がもうもうと木々よりも高く立ちのぼった。その中でよろめく身を支え、白彦が立っている。
「山の神への捧げ物などという蛮習がため両親を人間に嬲り殺され、自らも討たれんとしていたに、なぜそうも肩入れする?」
「黙れ!」
「あの萎びた人間の老婆が、真実この世に別れる日がくれば、あの家は守りを失った抜け殻よ。お前が力を出せば、意のままにできよう?」
異形の狐の言葉に、眉をひそめた。
老婆、つまりそれは祖母のことに違いない。
「……おばあちゃんが、あの家を守っていたってこと……?」
思わず呟いた言葉に、異形の狐がちらりと皐月に目をやった。
「なぜ我があの家にたやすく侵入できた?」
くぐもった笑いを漏らしながら、異形の狐が大きく腕を振りかぶった。直後、白彦の周りの木々が弾け飛んだ。
「のう白彦。己の本能に従え。喰らえ。お前が優しく請えば、その小娘、魂魄を差し出しも、その身を捧げもしよう」
「黙れええツ」
身をかばっていた白彦が断末魔のように叫び、人間には不可能なほどに高く跳躍した。
悟伯父だった異形の狐と同じ、金色の目が見えた。一瞬見えたその目が、ひどく哀しみに満ちていて、ハッと胸を打たれた瞬間、轟音が響き渡った。心臓を芯から縮ませるほどの音に首をすくめた。たち昇る土埃に激しく咳き込んだ。
周りが白く煙り、様子が分からない。
どこからともなく、あざけるような笑いが聴こえた。慌てて周囲を警戒した。
「あの家は、この先傾くだけ。祈りの要を失った家など、朽ちるだけよ」
「そんなことない! 風子おばさんが受け継いだもの!」
「笑止! 形さえも理解しておらぬ哀れな傀儡には勤まらぬ。あの家は白彦を受け入れた時点で、綻び始めておった。賢しらに情などを振りかざしたツケがこれよ」
風が逆巻いて楽しげな哄笑が響き渡った。
「おばあちゃんのことを悪く言う権利なぞあなたにはない」
白彦の低い声が響いて、笑いがやんだ。
視界が少しずつ輪郭を取り戻しはじめる。物が落ちる音がして、ゆらりと立ち上がった影が見えた。
白彦だった。洋服はボロボロに裂け、爆風で飛ばされた鋭い木片が皮膚を無数に裂いて、至るところから血が流れている。
明らかに白彦は、劣勢だった。
続くと信じていたものが突然断ち切られる恐怖が蘇った。祖母を喪ったばかりの今、大切なものを二度も喪うかもしれない恐怖は、自分の無力さも愚かさも忘れさせた。人ではない者らの間に割って入る危険も忘れ、皐月は弾かれたように白彦の元に駆けた。
自分に何ができるわけでもないけれど、守られているばかりでは、この想いさえ喪ってしまう。白彦が自分の想いに忠実に皐月を守るならば、皐月もまた、自分の想いを貫きたい。
倒れた鳥居や落ちた枝葉をつまずきそうになりながら、自分めがけて駆けてくる皐月に驚いて、白彦は「来るな!」と怒鳴った。
「嫌!」間髪入れずに否をつきつけた皐月に、白彦が一瞬状況も忘れて言葉を失った。皐月は白彦の胸にとびこむようにして、その服を掴んだ。
「私だって、きよくんを守りたい」
白彦を背にして、異形の狐に向き直った。
「あなた達はなんなの? 私が目的なの?」
「皐月ちゃん!」
「私を喰らえば満足してもらえるの!?」
「何を……、何を、言っているんだ!」
激高した白彦が後ろから皐月の肩をつかんで、のけようとする。それを振り払って、白彦を睨みつけた。美しい金色の目と、まっすぐ視線が結びつく。
「狐の嫁入り」
白彦が表情を強張らせた。
「悟おじさんも、……きよくんも、人じゃなかった」
「皐月ちゃん、違う、いやそうじゃなくて、それは」
「ううん、否定も嫌もない。私にはきよくんが、人じゃなくたって構わないもの」
妖怪でも、動物でも、異形でも、なんでも。
白彦が大きく目を見張った。
その驚愕と喜びと、それからわずかな淋しさの入り交じった白彦の顔に、ふっと何かが記憶の底からわきあがってきた。この感じに、覚えがあった。
「きよくんが人じゃなくてもいい」
同じことを白彦に告げた時が、かつてあった。
いつだったか。
「きよくんは、きよくんだから」
皐月は笑みを浮かべて、白彦の顔に手をのばしてふれた。呆然とした風で白彦は視線をさまよわせ、それから不意に泣き出しそうに顔を歪めた。
「皐月ちゃん、君は昔も……」
「ごめんね、ずっと気づけなくて。きよくんは、私が知らないところで、いつも守ってくれてた」
そう言った時、白彦がふいに「ぐあっ」と大きく呻いてのけぞった。
「きよくん!」
白彦はそのまま地面にどっと倒れ、表情を歪めて胸をかきむしった。皐月は青ざめて瞬時に白彦の体を覆うように膝をついた。
「きよくん! 痛いの、どうしたの?!」
「人じゃなくて構わぬと? なら見せてみよ」
嘲笑する声にハッと振り返ると、異形の狐が目を細めて笑っていた。その体の背後に、ふっさりと三本の太く大きな尾がゆらりと揺れている。
「う、ぐ……っ、て、てん、ぱく」
白彦が四肢をつっぱってのたうち、苦しげに土に爪をたてた。
「きよくん!」
脂汗をたらしながら、白彦が呻く。皐月はどうすることもできず、震える腕でその体を抱きしめた。
「お願い、やめて!」
白彦が荒く小刻みに息をつき、皐月がふれる腕をもぎはなした。
「きよくん!?」
「はな、れ、ろ。僕か、ら」
体を苛む苦しみから逃れようとしながら、白彦は切れ切れに言葉を口の端から押し出し、皐月を遠ざけようとした。
「離れ、るんだ。僕、は。ぐ……うあ、あ、あ、あああっ」
びくんと大きく白彦が体を弓なりにのけぞらせた。その金の瞳がひどく揺れ、瞳孔が開いては閉じを繰り返し、そして大きく見開かれた。それを合図にしたように、ゆっくりその顔を、その手足を、その体を変化させていく。
「き、よくん……」茫然とする皐月の目の前で、耳が尖り、鼻やヒゲが伸び、口が横に裂けた。
「う、……が、あっ」苦しげに開けたその口に、ぞろりと牙が生えている。のたうつ白彦の手足は、人のものではない鋭い爪がのびていた。
「その姿が、白彦の本性よ」
白銀の毛並みを纏って、白彦は人から四つ足で地を踏みしめる大きな狐へと変貌していた。そしてその尾は、悟伯父だった異形の狐と同じ三本。太くゆらりと揺れていた。
「あ……」
あまりの衝撃に、皐月は言葉を失って獣となった白彦を見上げた。言葉で知っているのと、目の前で実際を見せられるのでは、違う。でもその一瞬の沈黙が、皐月を見下ろす白彦の金の瞳を揺らした。激しい怯えと恐怖が、浮かんでいる。
その瞬間、皐月は白彦が、逃げたいのだと気づいた。
自分の本当の姿を見せたくはなかったのだと、恥じているのだと気づいた。
どうあっても、皐月と白彦は、根本的に存在が違っていた。
ゆらりと三本の尾を揺らし、白彦は皐月から目をそらすと、皐月を異形の狐の目から隠した。
「しょせん、言葉かぎりよ。人にお前の本性は受け入れられぬ」
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