狐の声がきこえる
哀れむような声に、白彦は人よりもはるかに大きな体の毛並みを逆立てたまま、黙って皐月に背を向けている。
例え自分の身を捨ててでも、白彦は、皐月を守る。例え皐月が獣に変化した白彦を拒絶したところで、彼はそれを貫くだろう。
それが、白彦だ。
人の魂魄を喰らって力を得るというのが異形の狐の、いやお狐さんの本質だ。でも白彦は獣の姿であっても皐月をかばう。白彦も、あの狐面の男の子も、この伯父だった者と変わらないお狐さんなのにも関わらず。いつだって、皐月を喰らう機会などそれこそ無数にあったのにも関わらず。
白彦は、捕食対象としてではなく皐月を守る。守り続けると、そう決めている。
人には人の理がある。
白彦たちには白彦たちの。
彼らが人の魂を喰らうことも、理なのだ。それを曲げれば、それ相応の因果が白彦を縛る。
本性を現しながらも、そうしない白彦にどんな苦しみが降り掛かるのか、皐月には分からない。
皐月は流れ落ちる涙をぬぐうこともなく、目の前の汚れてごわついた白銀の毛に手をのばした。
「きよくん」
皐月は白彦が震えるのも構わず、手をあたたかな毛皮にうめ、その奥の肌に触れた。そして静かに自分の身をその獣の体に寄せた。
獣の毛が顔に触れ、皐月はそのぬくもりを確かめるように頬をすりよせた。
「きよくんは、きよくんだよ。どんな姿をしていてもきよくんなの……」
するりと白彦が体を翻して、金の瞳でもの問いたげに皐月を見つめた。皐月はその瞳をまっすぐに見つめかえした。
「今度は私がきよくんに恩返しをする番。私だってきよくんが大切だから」
白彦がまた目を見開いた。
金色に輝く、美しい目だ。悟伯父のような禍々しさはなく、澄み切った琥珀の月のよう。
同じ異形の狐でも、こんなに違う瞳の美しさ。
「きよくんみたいに不思議な力はないけど……私だってきよくんを守りたい」
白彦の毛に覆われた頬は冷たく、流れていた血は固まっている。その血に触れた。
同じ、生きてる。
「これ以上、命を、粗末にしないで」
そう伝えると、皐月は後ろを振り返った。
そこに、異形の狐が、悟伯父だった者の他にも、何人ものお狐さんと人に呼ばれてきた異形の狐が現れていた。
拝殿の屋根に、石垣の上に、大木の枝や根元に、半壊した鳥居のそばに上に、あらゆるところに皐月と白彦を取り囲むようにして立っている。一様に狐の顔をしながらも、和服の男姿もあれば女姿もあり、無表情に金色の瞳で見下ろしている。まさに幼い頃に皐月が見た彼らであり、そしてあの茶色の草の海に現れた彼らだった。
「狐の嫁入りを見た者は、魂をとられる、か」
言い伝えではなく、真実なのだろう。彼らが存在することそのものが物語る。不思議と恐怖はない。ただ、皐月が知らなかった事実がそこにあるだけだ。
もしかしたら、本当はあの幼い日に、自分の命は潰えていたのかもしれない。
「何が、欲しいの?」
静かに彼らに問うた。
悟伯父だった異形の狐が、ぎらぎらと怒りを燃やして睨んでいた。それはどこか滑稽だった。人間のことを嘲笑いながら、その実、人間に一番近い感情を剥き出しにしている。
「お前さえいなければ、白彦は我をたばかりはしなかった」
先に口火を切ったのは、かつて悟伯父の姿をしていた異形の狐だった。
「お前さえいなければ、白彦は同胞を裏切りはしなかった」
拝殿の上の狐が言った。
「お前さえいなければ、白彦は理を乱しはしなかった」
鳥居の横の狐が言った。
「お前さえいなければ、白彦は我らの掟を破りはしなかった」
石垣の上に座る狐が言った。
「お前さえいなければ、白彦は孤独にならなかった」
大木の枝に立つ狐が言った。
「お前さえいなければ、白彦は己の願いを見失いはしなかった」
お前さえいなければと、重なり合う狐の声音が、社の神域中にわんわんと響いた。それはまるで皐月の魂を搦めとるような恐ろしくも美しい響きで、ふらりと、体が一歩前に進み出た。
魂を彼らに捧げたいわけじゃない。でも彼らの唱和する言葉が頭の中に渦巻いて、考えがまとまらなかった。このままその掌中に落ちれば、白彦は皐月を失いはすれど仲間の元に戻って、孤独ではなくなるだろうかと、ふと思った。
「やめろ! 彼女のせいじゃない! ただ、ただ僕だけに責があるんだ……!」
怒鳴り声が、きん、と頭の中に響いて、呪縛がとけたようにハッとした瞬間、白彦に背後から腕をとられた。振り返る間もなく、白彦は皐月を抱き寄せて、大きく跳躍した。獣の姿から人の姿へ戻りながら、そのまま皐月の頭を抱きこむようにして、後方に建つ鳥居に飛び降り、再び蹴って空に飛んだ。
急激に社が遠ざかり、古宇里山が遠ざかっていく。白彦は後ろを振り返ることなく、周りの景色がいくつもの色の帯にしか見えないほど速いスピードで跳躍を続けた。あまりにも速いスピードと高度に、酸素が薄くなって呼吸が浅くなり始めた時、穏やかな声が耳元に届いた。
「お帰り、君は君の居場所に」
「きよくん!?」
完全に人の姿に戻った白彦は皐月を胸から放した。皐月の体が白彦から慣性のままに離れようとしている。反射的に白彦の手をつかんだ。
「私の居場所は、きよくんのそばよ!」
白彦がふわりと穏やかな微笑を浮かべた。そして静かに皐月の手に触れた。
「僕はこの世界の者だから平気だけれど、幽体の皐月ちゃんには毒なんだ。これ以上ここにいてはいけない。変質してしまうから」
「ならきよくんも一緒に。ここに一人で置いてはいけない!」
白彦が寂しそうに頭を振った。
「僕にはやらなくてはならないことがある。皐月ちゃんは、僕の本性を見ても受け入れてくれた。それがどんなに僕を勇気づけてくれたか、分かるかい?」
白彦が皐月の手をそっと引きはがした。嫌々するように頭を振って、白彦の手を掴もうとして、皐月の手は虚しく宙をかいた。
「戻ると約束した!」
「約束は、守るよ」
指先が離れ、傷だらけでも微笑む白彦の姿と声が遠ざかる。皐月の体は猛スピードで来た道を引き返すように、夜空を古宇里山とは真逆の方角へ引っ張られた。抗えない力の大きさに無力を思い知らされて、悔しさともどかしさが胸を塞いだ。
点になっても、空中でぽつりと皐月を見送る白彦の姿が、哀しくて、泣けてくる。
でも泣いてはいられない。ぐいっと目元をぬぐった。
視界の片隅で、東の空がかすかに白んでいるのが見えた。
きっと、白彦は、皐月の元に戻ってきてくれる。帰ってきてくれる。
そう約束した。守ると言ってくれた。
皐月は、それを信じるだけしか、できない。
そう思った時、ふいに耳元で声が響いた。
「たまらぬ……」涼やかなのに、深い悔いをかみつぶすような苦しさが滲む声音だった。
「え?」と聞き返した時、優しく手に触れられた気がした。
「見たいかえ……?」問われて、皐月は訳も分からずに本能的に返した。
「見たい」と。
例え自分の身を捨ててでも、白彦は、皐月を守る。例え皐月が獣に変化した白彦を拒絶したところで、彼はそれを貫くだろう。
それが、白彦だ。
人の魂魄を喰らって力を得るというのが異形の狐の、いやお狐さんの本質だ。でも白彦は獣の姿であっても皐月をかばう。白彦も、あの狐面の男の子も、この伯父だった者と変わらないお狐さんなのにも関わらず。いつだって、皐月を喰らう機会などそれこそ無数にあったのにも関わらず。
白彦は、捕食対象としてではなく皐月を守る。守り続けると、そう決めている。
人には人の理がある。
白彦たちには白彦たちの。
彼らが人の魂を喰らうことも、理なのだ。それを曲げれば、それ相応の因果が白彦を縛る。
本性を現しながらも、そうしない白彦にどんな苦しみが降り掛かるのか、皐月には分からない。
皐月は流れ落ちる涙をぬぐうこともなく、目の前の汚れてごわついた白銀の毛に手をのばした。
「きよくん」
皐月は白彦が震えるのも構わず、手をあたたかな毛皮にうめ、その奥の肌に触れた。そして静かに自分の身をその獣の体に寄せた。
獣の毛が顔に触れ、皐月はそのぬくもりを確かめるように頬をすりよせた。
「きよくんは、きよくんだよ。どんな姿をしていてもきよくんなの……」
するりと白彦が体を翻して、金の瞳でもの問いたげに皐月を見つめた。皐月はその瞳をまっすぐに見つめかえした。
「今度は私がきよくんに恩返しをする番。私だってきよくんが大切だから」
白彦がまた目を見開いた。
金色に輝く、美しい目だ。悟伯父のような禍々しさはなく、澄み切った琥珀の月のよう。
同じ異形の狐でも、こんなに違う瞳の美しさ。
「きよくんみたいに不思議な力はないけど……私だってきよくんを守りたい」
白彦の毛に覆われた頬は冷たく、流れていた血は固まっている。その血に触れた。
同じ、生きてる。
「これ以上、命を、粗末にしないで」
そう伝えると、皐月は後ろを振り返った。
そこに、異形の狐が、悟伯父だった者の他にも、何人ものお狐さんと人に呼ばれてきた異形の狐が現れていた。
拝殿の屋根に、石垣の上に、大木の枝や根元に、半壊した鳥居のそばに上に、あらゆるところに皐月と白彦を取り囲むようにして立っている。一様に狐の顔をしながらも、和服の男姿もあれば女姿もあり、無表情に金色の瞳で見下ろしている。まさに幼い頃に皐月が見た彼らであり、そしてあの茶色の草の海に現れた彼らだった。
「狐の嫁入りを見た者は、魂をとられる、か」
言い伝えではなく、真実なのだろう。彼らが存在することそのものが物語る。不思議と恐怖はない。ただ、皐月が知らなかった事実がそこにあるだけだ。
もしかしたら、本当はあの幼い日に、自分の命は潰えていたのかもしれない。
「何が、欲しいの?」
静かに彼らに問うた。
悟伯父だった異形の狐が、ぎらぎらと怒りを燃やして睨んでいた。それはどこか滑稽だった。人間のことを嘲笑いながら、その実、人間に一番近い感情を剥き出しにしている。
「お前さえいなければ、白彦は我をたばかりはしなかった」
先に口火を切ったのは、かつて悟伯父の姿をしていた異形の狐だった。
「お前さえいなければ、白彦は同胞を裏切りはしなかった」
拝殿の上の狐が言った。
「お前さえいなければ、白彦は理を乱しはしなかった」
鳥居の横の狐が言った。
「お前さえいなければ、白彦は我らの掟を破りはしなかった」
石垣の上に座る狐が言った。
「お前さえいなければ、白彦は孤独にならなかった」
大木の枝に立つ狐が言った。
「お前さえいなければ、白彦は己の願いを見失いはしなかった」
お前さえいなければと、重なり合う狐の声音が、社の神域中にわんわんと響いた。それはまるで皐月の魂を搦めとるような恐ろしくも美しい響きで、ふらりと、体が一歩前に進み出た。
魂を彼らに捧げたいわけじゃない。でも彼らの唱和する言葉が頭の中に渦巻いて、考えがまとまらなかった。このままその掌中に落ちれば、白彦は皐月を失いはすれど仲間の元に戻って、孤独ではなくなるだろうかと、ふと思った。
「やめろ! 彼女のせいじゃない! ただ、ただ僕だけに責があるんだ……!」
怒鳴り声が、きん、と頭の中に響いて、呪縛がとけたようにハッとした瞬間、白彦に背後から腕をとられた。振り返る間もなく、白彦は皐月を抱き寄せて、大きく跳躍した。獣の姿から人の姿へ戻りながら、そのまま皐月の頭を抱きこむようにして、後方に建つ鳥居に飛び降り、再び蹴って空に飛んだ。
急激に社が遠ざかり、古宇里山が遠ざかっていく。白彦は後ろを振り返ることなく、周りの景色がいくつもの色の帯にしか見えないほど速いスピードで跳躍を続けた。あまりにも速いスピードと高度に、酸素が薄くなって呼吸が浅くなり始めた時、穏やかな声が耳元に届いた。
「お帰り、君は君の居場所に」
「きよくん!?」
完全に人の姿に戻った白彦は皐月を胸から放した。皐月の体が白彦から慣性のままに離れようとしている。反射的に白彦の手をつかんだ。
「私の居場所は、きよくんのそばよ!」
白彦がふわりと穏やかな微笑を浮かべた。そして静かに皐月の手に触れた。
「僕はこの世界の者だから平気だけれど、幽体の皐月ちゃんには毒なんだ。これ以上ここにいてはいけない。変質してしまうから」
「ならきよくんも一緒に。ここに一人で置いてはいけない!」
白彦が寂しそうに頭を振った。
「僕にはやらなくてはならないことがある。皐月ちゃんは、僕の本性を見ても受け入れてくれた。それがどんなに僕を勇気づけてくれたか、分かるかい?」
白彦が皐月の手をそっと引きはがした。嫌々するように頭を振って、白彦の手を掴もうとして、皐月の手は虚しく宙をかいた。
「戻ると約束した!」
「約束は、守るよ」
指先が離れ、傷だらけでも微笑む白彦の姿と声が遠ざかる。皐月の体は猛スピードで来た道を引き返すように、夜空を古宇里山とは真逆の方角へ引っ張られた。抗えない力の大きさに無力を思い知らされて、悔しさともどかしさが胸を塞いだ。
点になっても、空中でぽつりと皐月を見送る白彦の姿が、哀しくて、泣けてくる。
でも泣いてはいられない。ぐいっと目元をぬぐった。
視界の片隅で、東の空がかすかに白んでいるのが見えた。
きっと、白彦は、皐月の元に戻ってきてくれる。帰ってきてくれる。
そう約束した。守ると言ってくれた。
皐月は、それを信じるだけしか、できない。
そう思った時、ふいに耳元で声が響いた。
「たまらぬ……」涼やかなのに、深い悔いをかみつぶすような苦しさが滲む声音だった。
「え?」と聞き返した時、優しく手に触れられた気がした。
「見たいかえ……?」問われて、皐月は訳も分からずに本能的に返した。
「見たい」と。