狐の声がきこえる

襖が取り払われた奥の仏間には、棺のそばに立派な祭壇が設けられていた。でも明かりは薄暗く、香炉に赤く灯る線香がぼうっと浮かんでいる。それらだけが仏間を照らす唯一の明かりらしい明かりだった。
正座して祭壇を見上げると、生前、祖母の長寿祝いで撮った写真が遺影として掲げられている。九十歳を迎えた祖母は、まだまだ赫灼としていた。私は仕事の都合で行けなかったけれど、依舞の話では親族もだいぶ集まり、かなり盛り上がったらしい。
細々とした明かりに揺れる祖母の顔は、嬉しそうで、でもどこか心配そうにこっちを見ているようだった。
手を合わせてから、棺についた小さな扉を静かに開ける。目を閉じ、死化粧した祖母の顔はきれいなままだ。その不変さがよけいに、祖母の死を際立たせた。
可愛がってもらった遠い記憶の中の祖母は、しわはやっぱり多くて体も人並みより小さかったけれど、張りつめた気のようなもので実際より大きな存在に見えていた。でも今はとても小さい。こんなに小さな人だったんだろうかと疑わしくなるほどに。
かけたい言葉もかけなくてはならない言葉も喉の奥につまったまま出てこない。その代わりのように、ふとあの日見た狐の嫁入りのことや、今日の狐面の男の子のことが脳裏をよぎった。
祖母は何か知っていただろうか。
考えていた皐月の耳に、蝋燭の芯が燃える小さな音が届いた。
ーー皐月、あんたは魅入られっちまった。この世のものでねものに、好かれっちまったんだ。
そう言って、皐月の頭をゆっくり撫でていたのは祖母だったか。少し困った顔をしていたのを覚えている。でもしわに埋まってしまうほど細い目の奥はとても優しかった。
ーーでもばあちゃんの目さ黒ぇ内はなんとかすっぺ。皐月は、なーんも心配することねえがら。
縁側に座る祖母の膝に抱っこされた幼い皐月は頭の手から伝わるあたたかさに安心しきっていた。祖母の言葉が意味することよりも、その声音とリズムが心地よくて午睡に誘われていた。
突如蘇ってきた記憶にハッと目を開け、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくて辺りを見回した。
「どうした?」
悟伯父の声が隣の座敷から届いて、現実に引き戻された。
「え? あ、ううん、なんでもな、い……」
なにげなく祭壇が写りこむ縁側の窓に目をやった。窓には、パジャマ姿の自分が途方に暮れた顔で立ち尽くしている。なんとなくホッとしたのも束の間、写りこんだ物の向こうに目が吸い寄せられた。
月明かりに照らされ、つつましく手入れされた庭がある。昼間はしっとりと花弁を垂らしていた花菖蒲や杜若も、緑陰をもたらす竹もすべて闇の中だ。
でもそこに、ぼんやりと白いものが浮かび上がっていた。
小さな、影ーー子どもだ。
時間帯も立つ場所も尋常ではない。なによりその子どもの顔がやけに白く見えることの方に気を取られた。そのせいか両目の部分は、周囲の闇を吸い上げたようにぽっかりと黒く空いている。自然と目を凝らして、ぞわりと背筋に寒気が走った。
肌や顔色が白いのではない。
あれは、顔の上半分を覆う狐面をかぶっているからだ。
夕刻、追いかけた、あの男の子だ。こんな夜更けに、と思いかけてゾッとした。
こんな夜更けに、葬儀のあった他人の家に、たった一人で子どもがいるものだろうか。むしろ、子どもの顔をしているだけではないのか。
背筋に怖気が走ったその時、シャーッとカーテンを引く音がして皐月は反射的に音がした方角を見た。
悟伯父が長い廊下の向こうからカーテンを引きつつ歩いてくる。
シャーッ、シャーッ、シャーッ。カーテンレールの音がやけに響いた。
「閉めるの忘れてたわ」
悟伯父は、あっけらかんと笑いながらそう言って、その場に固まった皐月の前を通り過ぎ、仏間のある廊下の端までカーテンを引いて歩いた。予想もしていなかった悟伯父の行動に気を取られていたのも束の間、ハッと窓に駆け寄った。
カーテンの隙間から、外を見た。
いない。
窓から庭に目を凝らして狐面の男の子の姿を探していると、背後から声が届いた。
「ちゃんと開けた扉は閉めてやんねと。おばあちゃん、怒っちまうぞ」
振り返ると、仏間に移った悟伯父が棺の小さな扉を閉めていた。その手つきがあまりにぞんざいで、眉を顰める。私の心中を知ってか知らずか、悟伯父はだいぶ芯が低くなった蝋燭を面倒そうに取り替え始めた。
その様子に湧き上がってきた怒りを飲み込もうとして、口の中が乾いていることに気づいた。
「なあ皐月ちゃん」
鷹揚な口調は穏やかに聞こえるのに、空気が緊張を孕む。皐月が怒りをもって悟伯父を見つめていたから、というには異様に空気が強ばっていた。
「皐月ちゃんは、結婚してねかったよな?」
「え?」唐突すぎる内容についていけず、ぽかんと口を開けてしまう。
「うちの息子、どうだね?」
「へ?」
棺に向き合っていた悟伯父が、そのままにじりながら皐月を見た。
切れ長の瞳は、白彦に似ているはずなのに冷たくて鋭い。そこに刃があれば、否応なしに相手を一刀両断できそうなほど情の欠片も見えない。なのに、話していることのちぐはぐさが、余計に悟伯父の怖さを際立たせた。
「小さい頃、あんな仲良かったべ? 皐月ちゃんなら、白彦任せられんなあと思ってたんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、急に困ります。っていうか、そんな話する時じゃないですよね、今」
あまりの展開にうろたえて、きつめの口調で答えた。
「おばあちゃんは亡くなった。だからよ」
「だから、って意味分かりません! きよくんだってそんなこと望んでないでしょうし、」
「そんなことねえ。皐月ちゃん、あんたがこの家にまた帰ってくんのを待ってたんだ、白彦は。あんたがこの地に来なくなってから、ずっとな。皆、あいつを、白彦を見てきたんだ、分かってる」
祖母が安らかに眠る前での諍いに情けなくなりながらも、伯父の非常識さは覚えていた怒りに拍車をかけた。
「あのですね、大きくなれば自然と来なくなることだってあるでしょう。だからって、なんで急にきよくんと私が!」
「ううん……なんだあ、兄貴、うっせーぞ……」
荒らげた声に、座敷の方で唸るような声が聞こえた。座敷を向いた悟伯父がため息をついた。
「なんだよ、どうしたよ。お? 皐月ちゃん? 起きてたのか、もう二時近えぞ?」
頭をかきながら起きてきた圭吾伯父のおかげで、いっきに場が緩んだ。
「皐月ちゃん、本気で考えといてくれ。皆、あんたが白彦に応えてくれんの、待ってんだがら」
有無を言わさない口調に言い返そうとした皐月を制して、悟伯父は勢い良く立ち上がった。そして「おめえが寝てっから、蝋燭取り替えてたんだ」と言いながら圭吾伯父の方に行ってしまった。
悟伯父の言う皆がどのあたりまで指すのか分からないけれど、親戚中が自分ときよくんをそんな目で見ているとしたら、身の置き所がない。皐月は圭吾伯父にだけあからさまに「おやすみなさい」と断ると、依舞たちのいる寝間へと早足で歩き始めた。
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