母へ。
1985年5月10日。
1985年5月10日。
私は貧しい中で産まれた。
叔母から聞いた話だと、
オカンは叔母の肩を掴み、
力を込めて私を産んだという。
叔母はその時のことを面白おかしくも、
恨んでるかのようによく話す。
なぜ恨んでるか?
それは私が無事に産まれた後、
その掴んでたところには痣のようになり、
しばらくは消えなかったとの事。
オカンも必死だったのだろう。
全く記憶が無い、と。
そうした中で無事に生誕した私は、
5人兄弟の中で末っ子だった。
今では当たり前のようだが、
当時は5人でも大家族と言われていた。
家は貸家の平たい家。
私は4歳頃までその家にいたが、
記憶が薄れている。
覚えてる限りだと、玄関は大きめ。
玄関を上がると、すぐ目の前にガラス戸があり、
その奥は狭い空間にテレビやテーブル、
壁を伝ってタンスなど物が置かれていた。
テレビが置かれた部屋よりまた奥には、
扉はついていない寝室があった。
その部屋は、姉1人、兄3人が
就寝する部屋で二段ベッドを利用していた。
私はまだ幼いため、テレビが置かれた部屋で、
父、母と一緒に寝ていた。
玄関側に振り向き直すと、
玄関の右側に台所に続く。
台所に行くには小さな私には
一苦労する大きな段差がある為、
オカンの元に行きたくても、危ないからと
兄弟に止められていた。
私は貧しい中で産まれた。
叔母から聞いた話だと、
オカンは叔母の肩を掴み、
力を込めて私を産んだという。
叔母はその時のことを面白おかしくも、
恨んでるかのようによく話す。
なぜ恨んでるか?
それは私が無事に産まれた後、
その掴んでたところには痣のようになり、
しばらくは消えなかったとの事。
オカンも必死だったのだろう。
全く記憶が無い、と。
そうした中で無事に生誕した私は、
5人兄弟の中で末っ子だった。
今では当たり前のようだが、
当時は5人でも大家族と言われていた。
家は貸家の平たい家。
私は4歳頃までその家にいたが、
記憶が薄れている。
覚えてる限りだと、玄関は大きめ。
玄関を上がると、すぐ目の前にガラス戸があり、
その奥は狭い空間にテレビやテーブル、
壁を伝ってタンスなど物が置かれていた。
テレビが置かれた部屋よりまた奥には、
扉はついていない寝室があった。
その部屋は、姉1人、兄3人が
就寝する部屋で二段ベッドを利用していた。
私はまだ幼いため、テレビが置かれた部屋で、
父、母と一緒に寝ていた。
玄関側に振り向き直すと、
玄関の右側に台所に続く。
台所に行くには小さな私には
一苦労する大きな段差がある為、
オカンの元に行きたくても、危ないからと
兄弟に止められていた。
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