Anna
ある日の昼下がり。
客足の落ち着いた『Anna』の店内では、軽快なクラッシックの音楽に乗せて午後の優雅なひとときが流れている。
そんなところに、入社してまだ一年ほどの年頃の店員の女の子が、パタパタと軽快な足で彼のもとにやって来る。
「あの、店長の噂って本当なんですか?」
御堂は、突然湧いて降った疑問に、うん? と小さく小首を傾げる。先程まで動かしていた手先を止め、くるりと反転してその女の子の顔を見下ろした。やけにそのつぶらな目を輝かせている。
「噂……?」
「はい! 店長がバリバリのパリコレのモデルだったって、今同僚達の間で話題になってて、真相をこの目で確かめたいんです!」
大体の女という生き物は噂好きであると聞くが、彼の話もここまで来れば、少々困ったものだ。一体どこからそんな煙が登るのか。
好奇心という原動力に満ちた表情に、態とらしい困り顔をして、御堂は言った。
「さあ。どうかしら? まあその程度のからかいなら気は悪くないけど」
「え〜。結局どっちなんですかあ?」
御堂からそんな曖昧な返事しか帰って来ず、その女の子はどっと落胆の色を浮かべる。
プライベートな話にはそんな風にはぐらかすばかりか、ふわりと溢れる笑顔がどこか憎たらしい。そうして歯痒い思いをしながら、結局はここにいる誰も彼の口から真相は聞き出せないのだ。
「でもまあ、パリコレの一流モデルが辞めてこんなところで呑気にお菓子焼いてるなんて、おかしな話ですよねえ」
そんな悪気ない捨て台詞をこの場に残して、その娘はバックヤードに固まる女の子達の集団の中へと戻っていった。
こんなところに……か。
御堂は、ふと誰もいない店内を見回した。
クリーム色の壁、来客を報せる扉の鈴の音、店内を彩るクラッシックの音色、木のぬくもり、ショーケースに飾られた色とりどりのお菓子――……。
そこに、あるべきあの娘の姿は、どこにもいない。
いつから、こんな仮面を被って生きることに慣れてきたんだろうか。
一人に慣れてしまった。あの日を境に。
隣にいた当たり前が、バラバラに崩壊してしまってから。